『神の性質及び神の働きが
もたらす効果をどうやって認識すべきか』

 まず讃美歌を一曲歌おう。「王国の讃美(一)王国がこの世に下って来た」を!

伴唱:すべての民が神に歓呼しており、すべての民が神を賛美しており、すべての舌が唯一の真の神をほめたたえている。王国はこの世に下って来た。

1 すべての民が神に歓呼しており、すべての民が神を賛美しており、すべての舌が唯一の真の神をほめたたえており、すべての人が目を上げて遠くを眺めて、神の業を見ている。王国はこの世に下って来た。神の本体は豊満であり、完備である。だれがこのために喜び祝わないのか(だれがこのために喜び祝わないのか)。だれがこのために喜び踊らないのか(だれがこのために喜び踊らないのか)。シオンよ(シオンよ)、シオンよ(シオンよ)、あなたの勝利の旗を揚げて神のために祝いなさい!あなたの勝利の凱歌をあげて神の聖なる名を伝えなさい!地の果ての万物よ!早くきれいに洗って、神にいけにえをささげよう!天のもろもろの星よ、早く元の位置に復帰して大空での神の大能を現そう!神が耳をそばだてて地上の民の声を聞くと、その歌声の中には、神への無限の敬愛がこもっている!万物がよみがえる日に、神が自らこの世に臨んだ。その時、いろいろな花が勢いよく咲き出し、いろいろな鳥が一斉に鳴き、万物が狂喜する!いろいろな花が勢いよく咲き出し、いろいろな鳥が一斉に鳴き、万物が狂喜する!その時、サタンの国は王国の礼砲が鳴ると同時に倒れ、王国の賛美のとどろきの下で打ち壊され、永遠に立ち上がれない!

2 地上の人は、誰が敢えて立ち上がって逆らうのか。神が地上に降り、焼き払い、激しい怒りをもたらし、すべての災難をもたらした。この世の国はもう神の国となった!天の上には、白い雲がもくもくとわき上がり、天の下(天の下)、天の下(天の下)には、湖、川の水がゆらゆらとうねり、人の心を感動させる舞曲を喜んで演奏している。生息していた動物は穴から出てき、熟睡していた民たちは神に呼び覚まされ、すべての民が待っていたその日はとうとう到来した!彼らはいちばん美しい歌を神にささげた、神にささげた。

この歌を歌うたびに、あなたたちは心の中でどう思うのか。(とても興奮し、感動し、王国のすばらしい景色が浮かびます。その時、人と神は永遠に一緒にいられます。)人がどんな姿になれば、神と一緒にいられるかを考えた人はいるか。あなたたちの想像の中では、どんな人が神と共に以後の素晴らしい王国の生活を享受できるのか。(性質が変化した人です。)性質が変化した人だというと、どの程度まで変化し、どんな姿になった人か。(きよくなった人です。)きよさの基準は何か。(思うこと、考えることがキリストに味方できることです。)味方する表現は何なのか。(神様に逆らわなくなり、神様を裏切らなくなり、絶対に神様に従うことができ、神様を畏れる心があります。)一部の人の言葉はちょっと的を射ている。あなたたちはみな心を開いて、言いたいことを言いなさい。(王国の中で神様と一緒に生活する人は、真理を追い求める上で、いかなる人、事、物にも束縛されずに忠実に本分を尽くすことができ、そして暗やみの支配から離脱することができ、心が神様に味方し、神様を畏れ、悪から遠ざかることができる人です。)(わたしたちの物事を見る観点が神様のと一致し、暗やみの支配から離脱することができ、少なくともサタンに利用されず、堕落した性質を脱ぎ捨てて、神様に従うことができるべきです。わたしたちは暗やみの支配から離脱することが一番肝心だと思います。もし人が暗やみの支配、サタンの縛りから離脱することができなければ、神様に救われることができません。)(神様に完全にされる基準は、神様と心を一つにすることができて、もはや神様に逆らわなくなり、自分を認識し、真理を実行し、神様を認識し、愛し、神様に味方することができることです。これらができればいいと思います。)

結末人の心の中における重さ

 あなたたちが自分の守るべき道について、だいたいの内容を把握したし、いくらかの認識や理解を持ったようだ。しかし、あなたたちの言ったこれらのことが、あなたたちにとっては空疎なものなのか、それとも実際のものなのか、それはあなたたちが普段実行する時に何を重んじるかにかかっている。ここ数年来、あなたたちはいろんな面の真理のことで、字面上においても真理の内容においても一定の収穫を得た。これは、今の人がみな真理の追求をとても重んじていることを説明する。そういうわけで、これらの真理のいろんな面、さまざまな項目が一部の者の心の中に根を下ろしたことは明らかだ。でも、わたしが一番心配していることがあるが、それは何だろう。つまり、これらの真理のタイトル、これらの理論はあなたたちの心の中に根を下ろしたが、その実際の内容の分量はあなたたちの心の中にあまり多くないことだ。あなたたちが事に当たって試練に向き合い、選択をすべき時、これらの真理の実際があなたたちにとっての助けはどれほどか。あなたたちを助けて苦難を乗り越え、試練から出てきて、神の心を満足させ、試練の中でしっかり立って神のために高らかな証しをさせることができるか。あなたたちはこれらの事に関心を寄せたのか。一つ質問する。あなたたちの心の中で、あなたたちが毎日考え、思うこれらの事の中で、あなたたちにとって一番大切なものは何であるか、あなたたちはそれをまとめたことがあるか。どんなことがあなたたちにとって一番大切なのか。一部の者は、もちろん真理を実行することだと言い、一部は、もちろん毎日神の言葉を読むことだと言い、一部は、もちろん毎日神の前に来て神に祈ることだと言い、また一部は、もちろん毎日の本分をちゃんと尽くすことだと言い、さらに一部の者は、どんなことでも神を満足させ、神に従順で、神の心にかなうように行うことだけを望むことだと言う。では、本当にそうだろうか。これらの内容だけだろうか。例えば、ある者は、「わたしはただ神様に従おうと思っているが、事が臨むと思う通りにできなくなる」と言い、ある者は「わたしはただ神様を満足させたい。一度だけでもいい。だが、どうしても神様を満足させることができない」と言い、またある者は「わたしはただ神様に従いたく、試練が臨む時、神様が左右するに任せ、神様の支配と按配に従い、何の不平も言わず、何の要求もないことを望んでいるが、どうしても従順になることができず、ほとんど毎回失敗した」と言い、またある者は、「選択をすべき時に、どうしても真理を実行することを選ぶことができず、いつも肉体を満足させ、自分の私欲を満足させたいと思っていた」と言う。これはなぜだろう。神のテストが来る前に、あなたたちは何度も自分に挑戦し、何度も自分をテストし、自分を試しただろう。自分が本当に神に従い、神を満足させることができるかどうか、神を裏切らず、自分を満足させず、自分の私欲を満足させないで、神だけを満足させ、自分の選択を捨てることができるかどうかを見てみようかなあと思って。このように行った人はいるか。実は、あなたたちの前に置かれた事実はただ一つだけだ。それは、あらゆる人が心の中で最も関心を持ち、最も知りたがるもの、つまりあらゆる人の結末と落ち着き先なのだ。あなたたちがこれに気づいていないかもしれないが、しかし、これはいかなる人も否定できないことだ。わたしはこのことを知っている。一部の者は、人の結末、人類に対する神の約束、神が人をどんな落ち着き先にもたらすかについての、このいくつかの面の真理と神の言葉を何度も読みながら研究し、また一部の者は、繰り返して探し、いろいろ考えたが、最後には何の結果も得られなかったし、或いは曖昧模糊とした結論を得たかもしれない。しかし、最後はやはり自分の結末はどうなるか想像がつかない。大多数の人は、真理の交流を受け入れるとか、教会生活を受け入れるとか、本分を尽くす過程の中で、ずっと真相を知りたがっている。つまり、自分の結末はどうなるか、自分がいったい最後まで歩むことができるかどうか、神がいったい人に対してどんな態度を取るのか。さらには一部の者はこのような心配がある。「以前、わたしはいくらかの事をし、いくらかの言葉を言った。また神様に逆らったことがあり、神様を裏切る事をしたことがある。以前したいくらかの事は、神様を満足させることができず、神様の心を傷つけ、神様を失望させ、神様に憎まれ、嫌悪された。だから、わたしの結末は見通しがつかない!」大部分の人が自分の結末はどうなるかを知らなくて、不安を感じるのだと言ってもいい。「わたしは自分が百パーセント生き残ることができる人だと思う。わたしは百パーセント神様の心を満足させることができる。わたしは神様の心にかなう人、神様に良しとされる人だ」と、だれも敢えて言わない。一部の者は、神の道を守ることがとても難しいと思い、真理を実行することがいちばん難しいと思うので、自分がもう救えないと決めつけ、敢えて自分が良い結末を得ると高望みせず、或いは自分が神の心を満足させることができず、生き残る人になることができないと思っている。そういうわけで、自分が結末を持たず、いい落ち着き先を得ることができないと言う。人がどう思っていても、とにかく、あらゆる人は心の中で何十回も自分の結末を考え、自分の将来のために、神の働きが終わる時に何かを得るために、あらゆる人は考えており、計画している。一部の者は二倍の代価を払い、一部は家や生業を捨て、一部は結婚を放棄し、一部は会社をやめて神のために費やすことを選び、一部は家を離れて本分を尽くすことを選び、一部は苦しみやつらさを耐え忍んで、最も苦しい、辛い仕事を引き受けることを選び、一部は金銭財物をささげ、すべてをささげることを選び、さらに一部の者は真理を追い求め、神に対する認識を追い求めることを選んだ。あなたたちがどういう実行方式を選ぼうと、この方式は重要なのか。(重要ではありません。)ここの「重要ではない」とはどう理解すべきか。方式が重要ではないなら、何が重要なのか。(外側のよい行いは、真理の実行を代表しません。)(各々がどう考えるかは重要ではなく、わたしたちが真理を実行するかどうか、神様を愛するかどうかが肝心です。)(それらの反キリストや一部の偽リーダーが倒れたことから、外側の行為がどうかは最も大事なことではないことが分かりました。彼らは外側ではたくさんのものを捨て、しかも進んで代価を払うことができたが、彼らを解剖する時、彼らには全然神様を畏れる心がなく、あらゆる面で神様に敵対し、肝心な時はいつもサタンの側に立って神様の仕事をかき乱すということが分かりました。だから、事が臨む時、わたしたちがどの側に立つか、物事を見る観点はどうなのかがいちばん重要です。)あなたたちの意見はとてもいい。見たところ、あなたたちの心の中には真理を実行すること、神の心意、および人に対する神の要求に対して、もういくらかの基本的な認識があり、基準もあるのだ。あなたたちがそう言ってくれて、わたしはとても感激する。あなたたちの言葉にはあまり適切でないところもあるが、それはもう真理による解釈に近い。これはあなたたちが身の回りの人、事、物、神の按配する環境、そしてあなたたちの目で見たものに対して、もう自分の本当の認識、真理に近い認識を少し持ったことを証明する。あなたたちの言葉は全面的ではなく、あまり適切でないところはあるけれども、でもあなたたちの心の中の認識はもう真理の実際に近い。あなたたちがこう言うのを聞いて、私はとてもよい気分になった。

人の思いは真理の代わりになれない

 一部の者は苦しみやつらさを耐え忍び、代価を払うことができ、外側のよい行為もあり、人々にとても尊重され、敬服される。あなたたちはどう思うのか。この外側の行為は真理を実行することだと言えるのか。彼が神の心を満足させているのだと断定できるのか。なぜ往々にして人がこのような人を見ると、彼らが神を満足させており、真理を実行する道を歩んでおり、神の道を歩んでいるのだと思うようになるのか。なぜ一部の者はこのように思うのか。これには、一つの解釈しかない。その解釈は何だろう。つまり、多くの人は心の中で、真理を実行するとはどういうことか、神を満足させるとはどういうことか、本当に真理の実際があるとはどういうことかなどなど、これらの問題についてはっきりと分かっていないのだ。そういうわけで、一部の者は往々にして、うわべから見れば、霊的で、気高く、偉そうに見える人に惑わされるのだ。外側で文字、教理をよく喋り、外側で物事を処理するのが人々に敬服されるような者たちに対して、彼らはこの人たちの、物事を行う本質は何なのか、物事を行う原則は何なのか、物事を行う目標は何なのかを全然見ず、またこの人たちが本当に神に従う人なのか、本当に神を畏れ、悪から遠ざかる人なのかも全然見ないのだ。この人たちの人間性の本質に対して彼らは全然わきまえず、初めの頃は彼らのことをよく知らなかったが、次第に知るにつれて、敬服し、敬慕するようになり、最後には彼らを自分の偶像と見なす。しかも、一部の者の心の中では、彼らが崇拝する偶像、彼らが思っているような、家や生業を捨て、外側で代価を払うことができる人こそ本当に神を満足させる人、本当によい結末、よい落ち着き先を持つことができる人であり、神に良しとされる人であるのだ。人にこのような「思い」ができた原因は何だろう。このことの本質は何だろう。このことはどんな結果をもたらすだろう。私たちはまずこのことの本質は何かについて話してみよう。

これらの、人の観点に関わるもの、実行の仕方に関わるもの、人自身が採用した実行の原則、および人々が普段重んじるものは、実質的にはみな人に対する神の要求とは関係ないのだ。人が重んじるものは深くても浅くても、文字、教理であっても実際であっても、とにかく、人が一番守るべきものを人は守っておらず、一番知るべきものも知らないのだ。その原因をたどれば、人が全然真理を愛さないからだ。だから、人は精力を注いで神の言葉の中から実行の原則を探し出してから実行しようとせず、むしろ近道をして、自分の思う、知っているよい行為とやり方を総括し、それを自分の目標として追い求め、真理として実行している。その当然の結果として、人は人為的なよい行為で真理の実行を代替し、それと同時に神の機嫌を取ろうという欲望が満たされて、人は真理と対抗する資本、神に言い訳し、神と腕比べする資本を得るようになった。それと同時に、人は何もはばかることなく神をそばに置いて、自分の心の中の偶像を神の位置に置いてしまった。人がこれらの愚昧なやり方、愚昧な見方、或いは偏った見方、実行の仕方を持つようになった原因は一つだけだ。今日あなたたちに教えよう。それは即ち、人は神につき従いながら、毎日神に祈り、神の言葉を読んでいるが、事実上、神の心意を全然理解していないのだ。これが問題の根本原因なのだ。もし人が神の心を理解し、神が何を喜び、何を憎むのか、何を求め、何を見捨てるのか、どんな人を愛し、どんな人を嫌うのか、どんな基準で人に要求するのか、どんな方式で人を完全にするのかを知ったら、人は自分の考えを持つことがあろうか、また勝手にある人を崇拝することがあろうか、ある普通の人を自分の偶像と見なすことがあろうか。もし神の心意を理解したならば、人の見方は少し理性的になり、ある堕落した人を自分の偶像と見なすことはなく、真理を実行する道で、自分の好きなようにいくつかの簡単な規定や原則を守ることを、真理を実行することだと思うこともない。

神が人の結末を定める基準について、人はいろいろな考えを持っている

 わたしたちは本題に戻って、続けて人の結末に関する話題を話そう。

あらゆる人が関心を持っているのは自分の結末である以上、神がどのように人の結末を定めるのか、神がどのような方式で人の結末を定めるのか、また神がどのような基準によって人の結末を定めるのか、人の結末が定められる前に、神がどんな仕事をして人の結末を明らかにするのかを、あなたたちは知っているのか。これらを知っている人はいるか。さっき言ったが、一部の者は、神の言葉の中でずいぶん長い間研究していた。人の結末は一体どうなるのか、人の結末はどんな種類に分けられるのか、さまざまな人がそれぞれどんな結末を持つのか、また神の言葉の中で人の結末がどのように定められるのか、神がどのような基準、どのような方式によって人の結末を定めるのかを見てみようとするが、最後にはやはり結果が得られなかった。実は、それについて神の言葉の中で少し言及しただけで、そんなに多くない。それはなぜだろう。人の結末が明らかにされる前に、神は最後の結果を、いかなる人にも教えたくなく、人の落ち着き先がどうなのかを、前もって人に教えたくもない。なぜなら、そうするのは人にとって何の役にも立たないからだ。今、ここでわたしがあなたたちに教えたいことはただ一つだけだ。つまり、神がどのような方式で人の結末を定めるのか、どんな働きの原則で人の結末を定め、人の結末を明らかにするのか、どういう基準で人が生き残ることができるかどうかを定めるのかである。これもあなたたちが最も関心を持つことではないか。では、人の観念の中では、神がどのように人の結末を定めると思うのか。先ほどあなたたちはその一部分を話した。一部の者は忠実に本分を尽くし、費やすことだと言い、一部は神に従い、神を満足させることだと言い、一部は神が左右するに任せることだと言い、一部は低姿勢を保つことだと言った。……あなたたちがこれらの真理を実行する時、自分が思う原則に従って実行する時、神がどう思うかを知っているのか。あなたたちがこのようにするのは、神の心を満足させているのか、神の基準を満たしているのか、神の要求を満たしているのか、と考えたことがあるか。わたしは多数の人が考えたことがないと思う。彼はただ、神の言葉の中の一部分、或いは説教の中の一部分、或いは自分が崇拝している一部の霊的な人が思う基準を持ってきて当てはめ、自分に強いてこのようにするか、あのようにするだけだ。彼はこのようにするのが正しいと思うので、最後の結果がどうなっても構わず、ずっとこのように守っており、ずっとこのようにしている。一部の人はこう思っている。「わたしは長年神様を信じながら、ずっとこのように実行してきた。わたしは自分が神様を満足させたところが多いと思い、自分が得たのも少なくないと思う。というのは、この間に、わたしはたくさんの真理が分かり、自分が以前分らなかったものもたくさん分かり、特に思想の観点もずいぶん変わり、人生の価値観もずいぶん変わり、この世に対してもたくさんの認識を持つようになったからだ。」彼はこれこそ収穫であり、これこそ神が人の身に働いて収めようとする最終的な効果だと思っている。あなたたちはどう思うのか。あなたたち一人一人が実行することを含めるこれらの基準は、神の心を満足させているのか。一部の人はきっぱりと言うだろう。「もちろんそうだ!わたしたちは神様の御言葉通りに実行し、兄弟の説教や交流に基づいて実行し、ずっと本分を尽くしており、ずっと神様につき従っていて、神様を離れたことがない。そういうわけで、わたしたちは自分が神様を満足させていると胸を張って言うことができる。わたしたちが神様の心をどれほど理解しても、神様の言葉をどれほど理解しても、とにかく、わたしたちはずっと神様に味方するのを追い求める道を歩んでいる。もしわたしたちが行なったこと、したことが正しいなら、その結果はきっと正しい。」このような観点はどうなのか。正しいのか。一部の人はこう言うだろう。「わたしはこれらについて考えたことがない。ただこのように本分を尽くし、ずっと神様の言葉の要求通りに実行すれば、生き残ることができると思う。わたしは神様の心を満足させることができるかどうかを考えたことがなく、神様の要求基準に到達したかどうかを考えたこともない。神様はわたしに教えたことも、明確に指し示したこともないから。わたしは、自分が絶えず何かをすれば、神様が満足し、もうほかの要求を出さないだろうと思う。」これらの考えは正しいのか。わたしから見れば、あなたたちのこのような実行、このような考え、観点は想像が混ざっており、少し曖昧である。わたしがこう言うと、一部の者はがっかりして、「曖昧って?曖昧ならば、わたしたちは救われる見込み、生き残る見込みが極めて薄くて、ほとんどないのでは?あなたがこう言うのは、わたしたちにひや水を浴びせるのでは?」と言うだろう。あなたたちがどう考えても、わたしが言いたいこと、したいことがあなたたちにもたらそうとする効果は、あなたたちにひや水を浴びせるような感じを与えることではなく、あなたたちがもっと神の心意を理解し、神が何を考えているのか、何を成就しようとするのか、どんな人を喜ぶのか、何を憎むのか、何を恨むのか、どんな人を得ようとするのか、どんな人が神に見捨てられる対象なのかをもっと知るようにすることであり、あなたたちが心の中で、自分のあらゆる行いや思いがいったい神の要求基準までどれくらいの距離があるかをはっきりと、明白に知るようにすることなのだ。これらの話題は言う必要があるのではないか。わたしは、あなたたちがこんなに長い間神を信じ、こんなに多くの真理を聞いたが、あなたたちに最も欠けているのはこれらのものだと知っているからだ。あなたたちはすべての真理をノートにメモしておき、また自分が一番重要だと思う一部のものを頭の中に、心の中に刻み込んで、実行すべき時に取り出してそれをもって神を満足させようと思い、またあなたたちの不時の必要に備え、或いはあなたたちが直面する一つ一つの難関を乗り越える助けとし、或いはあなたたちの生活の伴侶としようとする。しかし、わたしから見れば、あなたたちがどのようにしても、ただしているだけなら、それはあまり重要ではない。では、何が最も重要なのか。あなたがしている時、心の中で、あなたがしていること、行っていることが神の求めるものなのか、あなたがしていること、思っていること、心の中で収めようとする効果、達成しようとする目的が神の心を満足させ、神の要求を満たし、神に認められることができるかどうかを、はっきりと知るべきことである。これらこそ最も重要なのだ。

神の道を歩む――神を畏れ、悪から遠ざかる

 あなたたちが記しておくべき言葉が一つある。この言葉は最も重要だとわたしは思う。なぜなら、この言葉はわたしが毎日心の中で何度も繰り返し考えたからだ。なぜこう言うだろう。毎回ある人と向き合う時、毎回ある人の物語を聞く時、毎回ある人の神を信じる上での経験や証しを聞く時、わたしは心の中でこの言葉によって、この人は神が求めるその人かどうか、神が喜ぶその人かどうかを判断する。では、この言葉は一体何だろう。あなたたちはみな目をこすって待っているだろうが、その言葉が語り出される時、あなたたちはとても失望するかもしれない。なぜなら、これは一部の人がいつも口にしている言葉だからだ。しかし、わたしはその言葉を口で言うのではなく、心に留めておく。その言葉は何だろう。それはすなわち、「神の道を歩む――神を畏れ、悪から遠ざかる」である。これはとても簡単な言葉だろう。この言葉は簡単だが、本当にこの言葉に対して深い理解を持っている人たちは、この言葉にはなかなか重みがあり、この言葉はとても実行する価値があり、それは真理の実際がある命の言葉であり、神を満足させることを追い求める人の一生の追求目標であり、神の心を思いやる人が一生守るべき道でもあると思っている。では、この言葉はあなたたちにとっては真理なのか、このような意義があるのか。一部の人たちは考えており、かみしめているだろうが、一部はこの言葉を疑って、「この言葉はそんなに重要なのか、そんなに重要なのか。このように強調する必要があるのか」と言うだろう。また一部の人はこの言葉が好きではないかもしれない。なぜなら、彼は「神様の道を、ただ一つの言葉で言うなら、あまりにも簡単ではないか。神様の言ったすべての言葉を一つの言葉にまとめるなら、神様をあまりにも微々たるものと見なすのではないか」と思うからだ。そうではないか。あなたたちの大多数は、この言葉の深い意味があまり理解できないかもしれない。あなたたちはこの言葉をメモしておいたが、心に記すつもりはない。ただそれをノートに書いておいて、暇な時に見てみ、考えてみるだけだ。全くこの言葉を覚えようとせず、またそれを使おうとしない人さえもいる。しかし、なぜわたしがあなたたちにこの言葉を言うのか。あなたたちがどんな観点を持っても、どのように考えても、この言葉は神が人の結末を定めることと大きな関連があるので、わたしはこの言葉を言わなければならない。あなたたちがどのようにこの言葉を理解しても、どのようにこの言葉を扱っても、わたしはやはりこのことをあなたたちに教えたい。もし人がこの言葉をちゃんと実行し、「神を畏れ、悪から遠ざかる」という基準に達することができるなら、その人は必ず生き残る人であり、よい結末を持つ人なのだ。もしあなたがこの言葉の基準に達することができなければ、あなたの結末は未知数だ。そういうわけで、わたしはまずこの言葉をあなたたちに教える。その目的は、あなたたちがまず心の中で、神がどのような標準に基づいてあなたたちを評価するかをよく知るためだ。先ほどわたしは言ったが、この言葉は神が人を救い、人の結末を定めることと大きな関連がある。この関連はどこにあるのか。あなたたちも知りたいと思うだろう。では今日、これについて話してみよう。

神は異なる試練で人が神を畏れ、悪から遠ざかるかどうかをテストする

 時代ごとに神が人の間で働く時、神は人にいくらかの言葉を与え、いくらかの真理を教える。これらの真理は正に、人の守るべき道、人の行うべき道であり、人に神を畏れ、悪から遠ざかることができるようにする道であり、また人が生活の中で、人生の道程の中で実行し、守るべきものだ。これは神が人に向かって言葉を発表する目的だ。これらの言葉は神から発表されたのだから、人は必ず守るべきだ。人はそれを守れば、命が得られるが、それを守らず、実行せず、生活の中で神のこれらの言葉を生かし出すことができなければ、人は真理を実行しているのではない。真理を実行しているのではないなら、神を畏れ、悪から遠ざかるのではなく、神を満足させることができない。人が神を満足させることができなければ、神に良しとされることができない。そうすれば、人の結末がなくなる。では、神の働きの中で、神はどのように人の結末を定めるのか、どんな方式で人の結末を定めるのか。わたしがこれについて言わなければ、あなたたちははっきり知らないかもしれないが、わたしがその過程を語り出したら、あなたたちははっきり知るだろう。というのは、多くの人はもうそのことを経験したからだ。

神の働きの中で、初めから今まで、神は各々の人、つまり、彼につき従う各々の人に対して、大小さまざまな試練を与えた。ある者は家族から見捨てられるという試練を経験し、ある者は劣悪な環境による試練を経験し、ある者は逮捕され、酷刑で苦しめられるという試練を経験し、ある者は選択に迫られるという試練を経験し、ある者は地位やお金による試練を経験した。要するに、さまざまな試練が人に臨んだ。神はなぜそのように行うのか。なぜそのように各々の人を扱うのか。彼はどんな結果を見ようとするのか。神はこの人が神を畏れ、悪から遠ざかる人かどうかを見ようとする。これはわたしがあなたたちに教えようとする重要な点だ。言い換えれば、神があなたを試す時、ある環境に臨ませる時、あなたが神を畏れているかどうか、悪から遠ざかっているかどうかをテストしようとするのだ。たとえば、ある人に捧げものを保管するという本分が臨み、この本分のために、彼は神への捧げものに触れるようになる。では、これは神が按配したことだろうか。これは疑う余地がない!あなたに臨むことはみな神が按配したのだ。このことがあなたに臨んだ時、神はあなたがどのように選択し、実行するのか、あなたが心の中でどのように思うのかを見ようとして、ひそかに観察する。神がいちばん関心を持つのはこの結果なのだ。なぜなら、神はこの結果に基づいて、あなたが今度の試練の中で神の基準に達したかどうかを判断しようとするからだ。しかし、ことが臨む時、人は往々にして、どうしてこのようなことが自分に臨んだのか、神の要求基準は何なのか、神が人の身から何を見ようとし、何を得ようとするかを考えない。このことが彼に臨む時、彼はただ心の中でこう思っている。「このことがわたしに臨んだ以上、わたしは気をつけ油断してはならない!何と言っても、神様への捧げものに手を出してはならない。」ただこのような簡単な考えを持つことだけで、彼は自分がもう責任を果たしたと思っている。この試練の結果は神を満足させたのか、それとも満足させなかったのか。あなたたちが話してみなさい。(人に神様を畏れる心があるなら、捧げものに触れるようなことが臨む時、これは神様の性質を犯しやすいことだと思い、この面で慎重になるはずです。)あなたの言葉は少し的を射ているが、まだ急所を突いていない。神の道を歩むのは、外側で規定を守ることではない、このことがあなたに臨んだ時、あなたはまずそれを、神が按配した環境、神があなたに委ねた責任、或いは神があなたに任せた委託と見なすべきだ。さらには、このことがあなたに臨んだ時、あなたはそれを、神のあなたに対する試練と見なすべきだ。このことがあなたに臨んだ時、あなたの心の中には一つの基準がなければならず、あなたはこのことが神から来たのであって、どうすれば責任を果たし、神に忠誠を尽くすことができるか、どうすれば神の怒りに触れず、神の性質を犯さないかを考えるべきだ。さっきの話で、捧げものを保管することに触れたが、これは捧げものに関係しており、またあなたの本分、あなたの責任に関係しているのであり、この責任は当然引き受けるべきものだ。だが、このことがあなたに臨んだ時、あなたにとって誘惑があるかどうか。誘惑がある!この誘惑はどこから来るのか。この誘惑はサタンから来るのであり、また人の邪悪な堕落した性質から来るのだ。誘惑があるのだから、人の立つべき証しに関わる。証しに立つということもあなたの責任と本分なのだ。ある人はこう言うだろう。「こんなに小さなことを、わざわざ取り上げて大げさに言う必要があるのか。」必要がある!神の道を歩もうと思うなら、わたしたちの身の回りで、周囲で起こるすべてのことをおろそかにしてはならないからだ。枝葉末節の事柄であっても、わたしたちに臨んだ以上、わたしたちがそのことを重んじるべきだと思っても、重んじるべきではないと思っても、わたしたちはそれをおろそかにしてはならず、それをわたしたちに対する神の試練と見なすべきだ。このような態度はどうなのか。もしあなたがこのような態度を取るなら、あなたの心は神を畏れるのであり、あなたの心は悪から遠ざかろうとするという事実が証明される。あなたに神を満足させようという願いがあるなら、あなたの実行することは神を畏れ、悪から遠ざかるという基準から遠くない。

一部の人は往々にして、人々があまり重んじないこと、人が普段全然触れないことを、小さなこと、真理と関係のないことと見なしていて、このようなことが臨むと、少し考えてから流してしまう。実は、このことがあなたに臨んだ時は、まさに、あなたがどのように神を畏れ、どのように悪から遠ざかるかという学課を学ぶべき時であり、しかもあなたはなおさら、このことがあなたに臨んだ時、神が何をしているのかを知るべきだ。神はあなたのそばで、あなたの一言一行、あなたの挙動、あなたの思いの変化を観察している。これは神の仕事なのだ。一部の人は「では、わたしはなぜそれを感じることができないのか」と言う。あなたが感じることができないのは、あなたが神を畏れ、悪から遠ざかる道を、最も重要な道として守らなかったからだ。そういうわけで、あなたは、神が人のさまざまな思い、さまざまな表現のゆえに、人の身にした微妙な仕事を感じることができないのだ。あなたはいいかげんな人だ!何が大きなことか、何が小さなことか。神の道を歩むことに関することなら、大小の区別がない!この言葉をあなたたちは受け入れられるか。(はい。)毎日人に臨むことの中で、人の目には大きなこともあれば小さなこともある。人は往々にして、大きなことを重要なことだと見なし、神から来たことだと思っている。しかし、大きなことで、人の身丈が小さいため、また人の素質が劣っているため、人は往々にして神の心意に届くことができず、どんな啓示も得られず、なんら価値のある実際の認識も得られない。小さなことで、人はそれをおろそかにして、少しずつ流してしまう。こうして、人は神の前で神にテストされ、神に試される多くの機会を失った。もしあなたがずっとこのように神があなたのために按配した人、事、物や環境をおろそかにすれば、これは何を意味しているのか。これは、あなたが毎日ひいては毎時、あなたに対する神の成就、神の導きを拒絶していることを意味している。神があなたのためにある環境を按配した時、神はひそかに観察し、あなたの心、あなたのあらゆる思いを監視しており、あなたがどのように思うのか、どのようにするのかを見る。もしあなたが粗忽な者であり、神の道、神の言葉、真理の上で真剣に求めたことのない人であるなら、あなたは神があなたのために按配した環境の中で、神は何を成し遂げようとするのか、あなたに対する神の要求は何であるかに心を留めず、また注意せず、しかもあなたに臨んだこれらの人、事、物は真理や神の心意とどんな関係があるかも知らない。このように、幾たびの環境、試練があなたに臨んだ後、神があなたの身でどんな成果も見ていないなら、神はどのようにするだろうか。幾たびの試練があなたに臨んだ後、あなたは心の中で神を大いなるものとせず、神があなたのために按配した環境を何とも思わず、それを神の試練やテストだと思わずに、神があなたに与えたチャンスを一回また一回と押しのけ、一回また一回と流してしまうなら、これは人の極めて大きな不従順ではないか。(はい、そうです。)神はこのことのために悲しむだろうか。(悲しみます。)神は悲しまない!わたしがこう言うと、あなたたちはまた大いに驚いてこう言うだろう。「以前は、神様が常に悲しむと言われていたのではないか。神様が悲しまないって?なら、いつ悲しむのだろう。」とにかく、このことで神は悲しまない。では、人の以上の表現に対して神はどういう態度を取るだろうか。人が神の人に対する試練、テストを押しのける時、人がこれらを避ける時、神が人に対して取る態度はただ一つだけだ。この態度は何だろう。つまり、神は心からこのような人をひどく嫌がって見捨てるのだ。ここの「ひどく嫌って見捨てる」とは二重の意味がある。わたしはどのように解釈するだろうか。その中の「ひどく嫌う」とは、かなり憎み、恨むという意味だ。その中の「見捨てる」とは、どういう意味なのか。わたしにあってそれは「放棄する」という意味だ。「放棄する」とは、どういう意味なのか、あなたたちはみな知っているだろう。要するに、「ひどく嫌って見捨てる」という意味は、人がこれらの事をしたことに対する神の最後の反応と態度であり、神が人を極度に憎んで反感を持つので、放棄することに決めたということだ。これは、神が全然神の道を歩まず、全然神を畏れ、悪から遠ざかることを行わない人に対する最後の決断だ。今、あなたたちは、先ほどわたしが言った言葉の重要性が分かったのか。

今、あなたたちは、神が一体どのような方式で人の結末を定めるかを知ったのか。(毎日異なる環境を配置します。)「異なる環境を配置する」、これは人が体験し、接触するものである。では、神がこのことをする目的は何だろう。その目的は、神が異なる方式によって、異なる時間、異なる場所で各々の人を試すことだ。人のどんなところを試すのか。人に臨んだ一つ一つの事で、或いはあなたが聞いたり、見たり、自ら体験した一つ一つの事で、あなたが神を畏れ、悪から遠ざかる人であるかどうかを試す。どの人にもこのような試練が臨む。神はどの人に対しても公平だからだ。一部の人はこう言う。「わたしも数年神様を信じてきたが、なぜわたしには臨んでいないのか。」あなたが自分には臨んでいないと感じるのは、あなたが、神があなたのために按配した環境を何とも思わなかったし、神の道を歩もうとも思わなかったからだ。そういうわけで、あなたは神の試練を全然感じられなかったのだ。ある人は、「わたしにも試練が何度も臨んだことがあるが、正確な実行の道が分からなかった。実行したとしても、試練の中で立っていられたかどうかを知らなかった」と言う。同じような状態にある人は少なくない。では、神が人を評価する基準は何なのか。さっきわたしが言った一言である。つまり、あなたのすること、思うこと、現し出すことが神を畏れ、悪から遠ざかるかどうかである。これによってあなたが一体神を畏れ、悪から遠ざかる人かどうかを確定する。これは簡単なことかどうか。口にするのは簡単だが、実行すると簡単なのか。(簡単ではありません。)なぜ簡単ではないのか。(人は神様の言葉を知らず、神様がどのように人を完全にするかも知らないから、事が臨んだ時、どのように真理を求めて問題を解決すべきかが分かりません。人は異なる試練、精錬、刑罰、裁きを経験してこそ、神様を畏れる実際を持つことができます。)あなたたちはこう言っているが、今、あなたたちから見れば「神を畏れ、悪から遠ざかる」ことは容易に達成できるように感じる。なぜこう言うだろう。あなたたちはたくさんの真理を聞き、真理の実際の注ぎをたくさん受けたので、現在は理論的にも思想的にもどうすれば神を畏れ、悪から遠ざかることができるかを知ったからだ。これはあなたたちが「神を畏れ、悪から遠ざかる」ことを実行するのにとても役立つのだ。そのため、あなたたちはそれは容易に達成できると感じるのだ。しかし、事実上、人々はなぜ達成できないのか。それは、人の本質は神を畏れず、悪を好むものだからだ。これが本当の原因なのだ。

 神を畏れず、悪から遠ざからなければ、神に敵対することになる

わたしたちは先ず「神を畏れ、悪から遠ざかる」という言葉がどこから来たのか見てみよう。(「ヨブ記」です。)ヨブに触れた以上、わたしたちはヨブのことについて話してみよう。ヨブのその時代に、神は人を征服し、人を救う仕事はしたかどうか。しなかっただろう。では、当時のヨブは神に対してどのくらいの認識をもったのか。(あまり持ちませんでした。)あなたたちの今の、神に対する認識と比べてどうか。なぜあなたたちは敢えて答えないか。あなたたちの今の認識より多いのか、少ないのか。(少ないです。)これは簡単に答えられる問題だ。少ないのは疑う余地のないことだ!今、あなたたちは神と面と向かっており、神の言葉と面と向かっていて、あなたたちの神に対する認識はヨブのよりずっと多い。わたしはなぜこのことに触れたのだろう。なぜこう言うのだろう。ここで、わたしは一つの事実を説明したい。この事実を説明する前に、わたしはあなたたちに一つ聞きたい。ヨブは神に対してあまり認識を持っていなかったが、神を畏れ、悪から遠ざかることができた。だが、今の人はできない。それはなぜだろう。(深く堕落したからです。)「とても深く堕落した」とは、問題の表面的な現象だ。わたしは永遠にそうは思わない。あなたたちは往々にして、「とても深く堕落した」、「神に逆らう」、「神に忠実でない」、「従順ではない」、「真理を喜ばない」などの普段よく言うこれらの教理、文字を、口癖のように言って、すべての問題の本質を解釈するが、これは間違った実行の仕方だ。同じ答えによって、性質の異なる問題を解釈するなら、これは真理や神に対する冒涜になる疑いがある。わたしはこのような答えが好きではない。あなたたちはよく考えてみなさい!このことについてあなたたちはだれ一人として考えたことがない。ところが、わたしは毎日それを見ることができ、感じることができる。そういうわけで、あなたたちはしており、わたしは見ている、と言うのだ。あなたたちがしている時は、このことの本質を感じることができないが、わたしが見る時は、このことの本質を見ることができ、感じることもできる。では、この本質は何だろう。なぜ今の人は神を畏れ、悪から遠ざかることができないのか。あなたたちの答えは遥かにこの問題の本質を解釈することができず、この問題の本質を解決することもできない。なぜなら、この中にはあなたたちが知らない一つの根源があるからだ。この根源は何だろう。わたしはあなたたちがとても聞きたがっていると知っている。では、この問題の根源をあなたたちに教えよう。

仕事を始めた時から神は人を何ものと見なしたのか。神は人を救ってきて、彼の家族と見なし、彼の働く対象、彼が征服し、救い、完全にしようとする対象と見なした。これは、最初神が仕事をした時、人に取った態度だった。しかし当時、人は神に対してどんな態度を取ったのか。人は神のことをよく知らないと感じて、神を見知らぬ者と見なした。人は神をどう扱うべきか見当がつかなかった、と言ってもいい。人はまたどう神を扱うべきかはっきり知らなかった。とにかく、人は自分の好きなように神を扱い、自分の好きなようにするのであった。人は神に対して観点を持っていたのか。初めのころ、人は神に対してどんな観点も持たなかった。人のいわゆる観点とは、神に対する観念、想像なのだ。人は自分の観念に合うものは受け入れ、自分の観念に合わないものはうわべでは服従するように見せかけて、内心では極力反抗し、反対する。これは最初、人と神の関係だった。つまり、神は人を家族と見なしたが、人は神を見知らぬ者と見なした。しかし、神が一定の期間働いた後、人は神が何をしようとするかを知り、神が真の神だと知り、自分が神から何を得られるかも知った。この時点で、人は神を何ものと見なしたのか。おぼれる者がつかもうとするワラと見なした。そういうわけで、神から恵み、祝福、約束を得ることを望んでいた。この時点で、神は人を何ものと見なしたのか。神は人を、征服しようとする対象と見なした。そういうわけで、神は言葉で人を裁き、テストし、試そうとした。しかし、この時点では、神は人にとって、自分の目的を達成するために利用する対象だった。人は、神が発表した真理が人を征服し、救うことができること、そして、神から自分のほしいもの、自分の得たい落ち着き先を得る機会があることを見たから、少しの真心を持つようになり、この神につき従おうとした。後になって、人は神に対して表面的な教理上の認識を持つようになった。それゆえ、人がますます神と「親しくなり」、神の言った言葉、語った道、発表した真理、した仕事に「詳しくなった」と言ってもいい。だから、人は自分がもう神と親しくなり、自分がもう神に味方する道を歩んでいると間違って考えている。今までに、人はたくさんの真理の道を聞き、神のたくさんの働きを経験したが、たくさんの要素、たくさんの状況に邪魔され、阻まれたので、多数の人は真理を実行することができず、神を満足させることもできない。こうして、人はますます怠慢になり、ますます信仰を失い、ますます自分の結末が未知数だと思って、敢えて高望みせず、向上心もなくなり、ただ無理やり一歩一歩前に進んでいるだけだ。人の今の状態に対して、神はどんな態度を取るだろうか。神はただ、これらの真理、彼の道を人に注ぎ込んだ後、さまざまな環境を按配して人を試し、いろいろな方式で人を試そうとする。それは、これらの言葉、これらの真理と彼のする仕事によって、「人が神を畏れ、悪から遠ざかる」という結果を達成するためだ。わたしの目に見える多数の人は、ただ神の言葉を教理、文字、規定として守っているだけであり、ことを行い、言葉を言う時、或いは試練が臨んだ時、神の道を、自分の守るべき道として守らなかった。特に、重大な試練が人に臨んだ時、「神を畏れ、悪から遠ざかる」という方向に向かって実行する人は一人もいないことを見た。だから、人に対する神の態度は、極めて反感を持っており、極めて憎むのだ!神が何回ひいては何百回人を試した後でも、人はやはり、神を畏れ、悪から遠ざかるという決心を明確な態度で表明しない!人にこのような決心、このような表現がないので、今、人に対する神の態度はもう以前のように憐れみを施し、寛容を施し、包容や忍耐を施すのではなく、人に対して極度に失望するのだ。この「失望」は誰がもたらしたのか。神が人に対してどんな態度を取るかは、誰にかかっているのか。神につき従っている一人一人にかかっている。長年にわたる働きの中で、神が人に少なからずの要求を出し、人のためにたくさんの環境を按配したが、人はどのように実行しても、神に対してどんな態度を取っても、明確に「神を畏れ、悪から遠ざかる」という目標に向かって実行することはできなかった。だから、わたしはこの一言を総括し、この言葉で、わたしたちがさっき言った、人がどうして神の道――神を畏れ、悪から遠ざかる――を歩むことができないかという問題を解釈する。この言葉は何だろう。それはすなわち、神は人を、神が救おうとする対象、神の働く対象として扱うが、人は神を敵、対立面として扱っている。このことについてあなたは今、はっきり分かったのか。人の態度は何なのか、神の態度は何なのか、人と神の関係は何なのか、これらは極めて明白だ。あなたたちがどれほどの真理を聞いたとしても、あなたたちが自分で総括したもの、例えば、神に忠実であること、神に従順であること、神に味方する道を求めること、神のために一生を費やすこと、神のために生きることなどは、わたしから見れば、意識的に神の道――神を畏れ、悪から遠ざかる――を歩むのではなく、ただあなたたちのある目的を達成するための一部の方法なのだ。これらの目的のために、あなたたちは無理やりいくらかの規定を守っているが、これらの規定のゆえに、人は「神を畏れ、悪から遠ざかる」という道からさらに遠ざかり、もう一度神を人の対立面に置いてしまった。

今日の話題は少し重いが、どうであろうと、わたしはやはり、あなたたちが以後の経験の中で、以後の生活の中で、わたしがさっきあなたたちに言ったことを行うように希望する。神を空気として扱ってはならない。すなわち、必要とする時は、彼が存在するのだと思い、必要としない時は、彼が存在しないのだと思う。あなたが潜在意識の中でこのように認識する時、あなたはもう神の怒りに触れた。ある人たちは言うだろう。「わたしは神様を空気として扱ってはいない。わたしはいつでも神様に祈っており、いつでも神様を満足させている。どんなことをしても、わたしは神様の要求する範囲、原則や基準に準拠してしたのであり、自分の意志によってしたのではない。」そうだ、あなたの実行の仕方は正しいのだ!しかし、ことがあなたに臨んだ時、あなたはどのように思ったのか、どのように実行したのか。一部の人は、神に祈り、神に願いをする時は、神が存在するのだと思うが、事に当たって自分の意志が出てきて自分の意志に従って行動しようとする時は、神を空気として扱うのであり、その時、彼にとって神は存在しないものだ。人はこう思っている。「人が神様を必要とする時は神様は存在すべきであり、必要としない時は神様は存在すべきではない。人は自分の意志に従って実行すればいい、自分の好きなようにすればいい、神様の道を求める必要などない。」人が今、このような光景、このような状態にあるのは、危ない瀬戸際にあるのではないか。一部の人はこう言う。「わたしが危ない瀬戸際にあるかどうかに関わらず、とにかく、わたしは長年神様を信じてきたから、神様がわたしを見捨てるはずがない。神様はわたしを見捨てるに忍びないからだ。」また一部の人はこう言う。「わたしは母の腹の中にいた時から主を信じてきて、もう四、五十年になった。時間から言えば、わたしはいちばん神様に救われる資格があり、いちばん生き残る資格がある。この四、五十年の間に、わたしは家や生業を捨て、すべてを捨てた。たとえばお金、地位、享受および一家団欒の喜びを捨て、たくさんのおいしいものを食べられなかったし、多くの面白いものも遊べなかったし、多くのいい場所にも行ったことがない。さらには普通の人が耐え忍ぶことのできない苦しみさえ受けた。もし神様がこれらによってわたしを救わないなら、わたしはとても悔しい。このような神様は信じることができない。」このように思う人は多いではないか。(多いです。)では、今日あなたたちに一つの真相を知らせよう。このように思う人はみな、石を持ち上げて自分の足を打っているのだ。というのは、彼らは自分の想像で自分の目を覆ったからだ。彼らの想像、決定は、神の人に対する要求基準に取って代わり、彼らが神の本当の心意を受け入れるのを阻止した。そういうわけで、彼らは神が実際に存在することを感じられなくなり、神に完全にされる機会も失って、神の約束と何の関係もなくなった。

神がどのように人の結末を定めるか、および神が人の結末を定める基準

 あなたは、自分の考えや決定などを持つ前に、まず神があなたに対してどんな態度を取るのか、神が心の中でどう思っているのかを知りなさい。それでこそ、あなたは自分の思うこと、考えることが正しいかどうかを判断することができる。神は時間を単位として、人の結末を定めたことがなく、人がどれほどの苦しみを受けたかによって、人の結末を定めたこともない。では、神は何を基準として人の結末を定めるのか。時間を単位として人の結末を定めるのは一番人の観念に合う。そして、あなたたちが常に目にしている、たくさん捧げ、たくさん費やし、たくさんの代価を払い、たくさんの苦しみを受けた人々は、みなあなたたちの観念の中の、神に救われることができる人なのだ。この人たちが現し出すこと、生かし出すことがまさに人の観念の中の、神が人の結末を定める基準なのだ。あなたたちがどう考えても、これらの例は一々挙げない。要するに、神の心の中の基準でない限り、それは人の想像によるもの、人の観念なのだ。もしあなたがひたすら自分の観念と想像に固執するなら、どんな結果になるだろうか。明らかに、神に見捨てられるという結果になるしかない。というのは、あなたはいつも神の前で古参風を吹かし、神と腕比べし、神と言い争おうとするが、本当に神の思いを理解しようとせず、神の心意と、神の人に対する態度を理解しようとしないからだ。あなたがこのようにするのは、自分を大いなるものとするのであって、神を大いなるものとするのではなく、自分を信じるのであって、神を信じるのではない。神はこのような人を必要とせず、このような人を救うことがない。もしあなたがこのような観点を捨てることができ、以前の間違った観点を正し、神の要求に従って行動し、今からスタートして神を畏れ、悪から遠ざかる道を実行し、あらゆる面で神を大いなるものとし、自分の想像、観点、思いによって自分を定義したり、神を定義したりせず、むしろあらゆる面で神の心意を求めることによって、神の人に対する態度を知り、理解し、神の基準によって神を満足させるなら、それはすばらしいことだ!これは、あなたがもうすぐ、神を畏れ、悪から遠ざかる道につくことを意味している。

神が人のいろいろな考えによる思想、観点を基準として人の結末を定めるのでないなら、神はどんな基準によって人の結末を定めるだろうか。神は試練によって人の結末を定める。試練によって人の結末を定めるのには、二つの基準がある。第一は、試練の回数で、第二は、試練の結果だ。つまり、神はこの二つを基準として人の結末を定めるのだ。今、この二つの基準について詳しく話してみよう。

先ず、ある人に神の試練が臨んだ時〔注:この試練はあなたから見れば、とても小さくて、語るに足らないかもしれない〕、神はあなたに、これは神の手があなたに臨み、神があなたのためにこのような環境を按配したことをはっきり意識させるはずである。あなたの身丈が小さい時、神はあなたの身丈にふさわしく、あなたが理解することも耐えることもできる試練によってあなたを試す。あなたのどんなところを試すだろうか。あなたの神に対する態度を試すのだ。この態度はとても重要なのか。もちろん重要だ!しかもとても重要だ!この態度が神の求める結果だからだ。そういうわけで、人の態度は神にとっていちばん重要だ。さもないと、神は精力を注いで人の身にこのような仕事をすることがない。なぜなら、神は試練を通して、あなたの神に対する態度を見ようとし、あなたが正しい道を歩んでいるかどうか、神を畏れ、悪から遠ざかっているかどうかを見ようとするからだ。だから、当時あなたが分かった真理が多くても少なくても、神の試練はやはりあなたに臨むのであり、あなたの分かった真理が多くなるにつれて、神は続けてふさわしい試練を按配していく。試練がもう一度あなたに臨む時、神はまた、あなたのこの間の観点、考え方、そしてあなたの神に対する態度が進歩したかどうかを見ようとする。ある人は、「なぜ神様はいつも人の態度を見ようとするのか。人がこのように真理を実行すれば、神様は見えるのではないか。人の態度を見る必要があるのか」と言うだろう。これは愚かな話だ!神がこのようにする以上、その中には必ず神の心意があるのだ。神はずっと人のそばにいて、人の一言一行、一挙一動、ひいては人の一つ一つの思い、考えまで見る。人の身に起こるすべてのこと、すなわち人の善行、人の過失、人の過ち、そして人の不従順、裏切りを、神は一々記しておいて、人の結末を定める証拠とする。神の働きが一歩一歩高まるにつれて、あなたの聞いた真理がますます多くなり、あなたの受け入れた積極的な物事、積極的な情報と真理の実際もますます多くなり、神のあなたに対する要求も高くなる。それと同時に、神はあなたのためにもっと重い試練を按配する。その目的は、この間、あなたの神に対する態度が進歩したかどうかを試すためだ。もちろん、この時、神があなたに要求する観点はあなたの分かった真理の実際と一致するのだ。

あなたの身丈が大きくなるにつれて、神のあなたに対する要求基準も次第に高くなる。あなたが幼い時、神はあなたにとても低い基準を与える。あなたの身丈が少し大きくなった時、神はあなたに少し高い基準を与える。しかし、あなたがすべての真理が分かった後、神はどのようにするだろうか。神はもっと大きな試練をあなたに臨ませる。もっと大きな試練の中で、神が得ようとするもの、見ようとするものは、あなたの神に対するもっと深い認識と、あなたの本当の畏れだ。その時、あなたに対する神の要求は、あなたの身丈が小さい時のよりもっと高く、もっと「厳しい」〔注:人にとっては厳しいが、神にとってはとても正当だ〕。神が人を試している間、神はどのような事実を成就しようとするのか。神は人が心を彼に与えることを絶えず要求する。ある人はこう言うだろう。「どのように与えるのか。わたしはもう本分を尽くし、家や生業を捨て、しかも費やしてきた。これらはみな、すでに心を神様に与えた表現ではないか。またどうやって心を神様に与えるのか。まさかこれらの方式は、心を神様に与えた表現ではないか。神様の具体的な要求は一体何なのか。」…4/29/2016この要求はとても簡単だ。実は、一部の人は、異なる段階の試練の中で、程度は異なるが、すでに心を神に与えた。だが、絶対多数の人は心を神に与えたことがない。神があなたを試す時、神はあなたの心が神に向くのか、それとも肉体、サタンに向くのかを見る。神があなたを試す時、あなたが神の対立面に立つのか、それとも神に味方する立場に立つのか、あなたの心が神の側に立つかどうかを見る。あなたが幼い時、試練があなたに臨むとしても、あなたの信仰がとても小さく、あなたの分かった真理にも限りがあるので、あなたはどうすれば神の心を満足させることができるかを正確に知ることができない。しかし、あなたが真心をもって神に祈ることができ、心を神に渡し、神に支配されることを望み、自分がいちばん貴重だと思うものをすべて神にささげることを望むなら、もう心を神に与えたことになる。あなたの聞いた真理がますます多くなり、あなたの分かった真理がますます多くなる時、あなたの身丈も次第に大きくなる。その時、神のあなたに対する要求基準は、あなたが幼い時の基準ではなく、それよりもっと高い基準だ。人が心を次第に神に与えることができる時、人の心は次第に神に近づくようになり、人が本当に神に近づくことができる時、人はますます神を畏れる心を持つようになる。神が求めるのは、このような心なのだ。

神がある人の心を得ようとする時、神は彼に幾たびの試練を与える。試練の間に、もし神が彼の心を得ておらず、また彼のどんな態度も見られず、すなわち彼の、神を畏れる実行、表現を見られず、彼の、悪から遠ざかろうとする態度、決心も見られないなら、幾たびの試練の後、神の彼に対する忍耐は取り戻され、神はもうこの人を容赦せず、試さず、しかもこの人の身に働かない。では、この人の結末は何を意味しているのか。彼の結末は、まさに結末がないことを意味している。もしかすると彼はどんな悪も行わなかったかもしれないし、もしかすると彼は邪魔し、かき乱すようなことをしなかったかもしれないし、もしかすると公然と神に逆らわなかったかもしれないが、彼の心は神に向かって隠れており、彼は神に対して、いつも明確な態度、観点を持たないので、神は彼が心を神に渡すことを明確に見ることができず、彼が神を畏れ、悪から遠ざかるのを追い求めることを明確に見ることもできない。このような人に対しては、神はもはや我慢せず、いかなる代価も払わず、憐れみを施さず、彼の身にいかなる仕事もしない。このような人の神を信じる生涯はもうこれで終わりだ。なぜなら、彼に対する神の幾たびの試練の中で、神の願う結果が得られなかったからだ。だから、一部の人の身では、わたしは彼に聖霊の啓き、照らしがあるのを見たことがない。どうやってそれが分かっただろうか。この人は長年神を信じながら、外側で元気いっぱいに走り、本も少なからず読み、ことも少なからず処理し、十数冊のノートを持っており、身につけた文字、教理はやまほどあるが、進歩が全然見られず、彼が神に対していかなる観点や明確な態度を持つのも全然見られない。つまり、あなたはこの人の身から彼の心を見られない。彼の心はいつも包まれており、彼の心は閉ざされている――神に対して閉ざされているのだ。だから、神は彼の真心を見たことがなく、彼の神に対する本当の畏れを見たこともなく、なおさらこの人がどのように神の道を歩んだかを見たことがない。今までに神がこのような人を得ていないのに、後になって得ることができるだろうか。得ることができない!神は得られないものを強要するのか。そんなはずがない!だから、今、このような人に対して神はどんな態度を取るだろうか。(見捨て、相手にしないのです。)相手にしない!このような人に対して神は相手にせず、見捨てる。この言葉はあなたたちがとても早くて正確に覚えた。見たところ、あなたたちはよく聞き取った!

一部の者は神につき従ったばかりの時、幼くて無知であって、神の心意が分からず、神を信じるとはどういうことかも分からず、人為的な間違った方式によって神を信じ、神につき従っていた。試練が彼に臨んだ時、彼はどんな意識も持たず、神の啓き、導きにとても鈍感であり、心を神に与えるとは一体どういうことか、試練の中で立っていられるとは一体どういうことかを知らなかった。このような人に対しては、神は一定の期限を与える。この間に、彼に神の試練とは何か、神の心意とは何かを分からせる。その後、彼に自分の観点を表明させる。この段階にある人に対しては、神はやはり待っている。観点は少し持っているが、まだ立場がしっかりしておらず、心を神に与えようと思うが甘んじてそうすることができず、基本的な真理をいくらか実行したが、大きな試練が臨むと逃避し、あきらめようとするような人に対しては、神はどんな態度を取るのか。このような人に対しては、神は少しの期待を抱いている。どんな結果になるかは、彼らの態度と表現にかかっている。もし人が積極的に追求しなければ、神はどのようにするだろうか。神は放棄する。なぜなら、神があなたを放棄する前に、あなたがもう自分自身を放棄したからだ。それなら、あなたは神があなたを放棄したことをとがめるわけにはいかない。そうではないか!これは公平だろう。(公平です。)

一つの現実の問題によって現された人のさまざまな醜態

このほかに、わたしがあまり口にしたくない部類の人がいる。彼らの結末は最も悲惨なのだ。彼らが悲惨だというのは、彼らが神に懲罰されたか、或いは神の彼らに対する要求が厳しいため、悲惨な結末になったわけではなく、彼ら自身が招いたのだ。つまり、人がよく口にしている言葉のように、自分が長く歩きすぎたため、足にマメができたのだ。これはどの部類の人なのか。この部類の人は正しい道を歩まず、前もって自分の結末を現したのだ。このような人は神の目には、いちばん神に憎まれる対象だ。人の言葉で言えば、このような人はいちばん悲惨なのだ。この部類の人は神につき従ったばかりの時、とても熱心であって、たくさんの代価を払い、神の働きは明るい見通しがあると思い、自分の未来に対しても想像に満ち、神に対して確固とした信仰を持ち、神が人を完全にし、人によい落ち着き先をもたらすことができると信じていた。だが、ある原因のため、神が働いている間に、彼は逃げてしまった。ここの「逃げる」とは、どういうことなのか。すなわち、声もかけず、挨拶もしないで黙って離れるということだ。この部類の人は口先では神を信じると言うが、神を信じる道に根をおろしていないので、どんなに長い間、神を信じたとしても、神を離れられる。ある者は商売のために、ある者は自分の生活のために、ある者は金儲けのために、ある者は結婚して子を産むために……この部類の人のうち、一部の者は良心が目覚めて戻ろうとし、一部の者は今、とても悲惨な状態になり、長年この世をさまよいながら、たくさんの苦しみを受けたので、この世に生きていることが辛すぎ、神を離れられないと感じて、もう一度神の家に戻って慰め、平安、喜びを得ようとし、引き続き神を信じて、災難を逃れ、或いは救われてよい落ち着き先を得ようとする。なぜなら、彼は、神の大きな愛は限りがなく、神の恵みは尽きることがなくて、人が以前どうだったかに関わらず、神が彼を赦し、彼の過去を大目に見るだろうと思っているからだ。彼らはしきりに、戻ってきて本分を尽くしたいと言うのであり、さらには、教会にいくらかの財物を施すというやり方で、もう一度神の家に戻ろうとする人さえもいる。このような人に対して、神はどんな態度を取るだろうか。神はどのように彼らの結末を定めるべきか。みなさん、話してみなさい。(もともとは、神様がもう一度このような人を受け入れるだろうと思いましたが、さっきの話を聞いて、その可能性が低いと思います。)その理由は何か。(このような人は死なないという結末を得るために神様の前に来ようとするのであって、真心で神様を信じるためではありません。彼らは神様の仕事がもうすぐ終わると知って、戻ってきて祝福を得ようと妄想しています。)つまり、彼が真心で神を信じるのではないので、神が彼を受け入れることがないということだね。(はい。)(わたしの理解では、このような人は日和見主義者です。彼は真心で神様を信じようとするのではありません。)彼は神を信じるために来たのではなく、日和見主義者だ。この話もいい!「日和見主義者」のような人は誰にも恨まれる。彼は日和見をし、利己主義者だから、当然恨まれるべきだ!ほかの兄弟姉妹はどんな観点があるか。(神様はもう彼を受け入れません。今は神様の働きがもうすぐ終わり、人の結末を定める時だからです。この際、彼が戻ってこようとするのは、本当に真理を追い求めるためではなく、災難が下るのを見たか、或いは外界のある要素のゆえに、戻ってこようとするのです。もし彼が本当に真理を追い求める心を持っているなら、どんな場合でも途中で逃げることはありません。)違う意見を持つ人はいるか。(受け入れません。実は、神様は彼らに機会を与えられましたが、彼らがずっと神様を無視する態度を取ったのです。これらの人の意図が何であろうと、たとえ本当に悔いるとしても、神様はもう一度彼らを受け入れません。神様はもう彼にたくさんの機会を与えられましたが、彼がもう、神様を離れようという態度を表明したからです。そういうわけで、今、戻ろうとしても、神様は受け入れません。)(わたしも神様がこのような人を受け入れないという観点に賛成します。なぜなら、もしある人が真理の道を見、こんなに長い間、神様の働きを経験したにもかかわらず、やはり世界に戻り、サタンの懐に戻るということは、神様に対する最大の裏切りだと思うからです。神様の本質は憐み、愛ですが、どんな人に対してもそうではありません。もし人が慰めを得、寄り所を得るために神様の前に来るなら、このような人は全然真心で神様を信じる人ではありません。神様はもうこのような人に対して憐れみを施すことがありません。)神の本質は憐れみなのに、どうしてこの部類の人に少しも憐れみを与えないだろう。少しでも憐れみを与えると、彼は機会を得られるのではないか。以前、人は常にこう言っていた。神は、一人も滅ぼされることなく、すべての人が救われることを望んでいる。もし百匹の羊を持っていて、その一匹が迷い出たなら、神は九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行く。今、このような人に対して、彼が本当に神を信じるなら、神は彼を受け入れて、もう一回チャンスを与えるべきではないか。実は、この問題はとても簡単で、答えにくいのではない。もしあなたたちが本当に神のことをよく知っており、神に対して本当の認識を持っているなら、あまり解釈する必要がなく、あまり推測をする必要もない。そうではないか!あなたたちの言葉は少し的を射ているが、神の態度とはやはり隔たりがある。

さっき一部の人が述べた観点ははっきりとしていて、神がこのような人を受け入れるはずがないと思っている。一部の人の観点はあまり明確ではなくて、神が彼らを受け入れる可能性もあれば、彼らを受け入れない可能性もあると思っているが、この態度は比較的中庸だ。もう一部の人の観点は、神が彼らを受け入れることを希望するのであるが、この態度は曖昧だ。はっきりとした態度を取る者たちは、今、神の仕事がもう終わったから、神がこのような人を寛容する必要がなく、もう一度彼らを受け入れるはずがないと思っている。中庸の態度を取る者たちは、状況によって扱い方が違うべきだと思っている。つまり、彼が心の中で神を離れられず、やはり本当に神を信じる人であり、真理を追い求める人であれば、神は彼の以前の弱さ、過失を覚えるべきではなく、彼を赦し、もう一度彼に機会を与えて、神の家に戻らせ、神の救いを受けさせるべきであり、もし彼がもう一度逃げるなら、その時、神が彼を受け入れなくても悔しいことはない。もう一部の者は神が彼を受け入れることを希望する。これらの人は、神が彼を受け入れるかどうかをはっきり知らなくて、こう思っている。「もしわたしが、神様が彼を受け入れるべきだと思うが、神様が彼を受け入れなければ、自分の観点は神様の観点に合わないようだ。もしわたしが神様が彼を受け入れるべきではないと思うが、万が一、神様は自分が人に対して無限の愛があり、もう一度彼に機会を与えたいと言うなら、これは自分の無知を暴露することになるのではないか。」どうであろうと、あなたたちはみな自分の観点を持っている。あなたたちの観点は、あなたたちの思想による認識であり、あなたたちが真理、神の心意をどれほど理解したかの体現でもある、と言ってもいい。そうだろう。このことについて、あなたたちは自分の観点を持っている、これはいいことだ!しかし、あなたたちの観点が正しいかどうかはまだ疑問だ。あなたたちは少し心配しているだろう。「どれが正しいのか、わたしもはっきり知らない。神様がどう思っているのかも知らない。神様がわたしに教えていないのだから、わたしがどうして神様がどう思うかを知ることができようか。神様の人に対する態度は愛だ!神様の以前の態度によれば、神様は受け入れるはずだ。でも、今、神様がどんな態度を取るかはわたしもはっきり知らなくて、受け入れる可能性もあれば、受け入れない可能性もあるとしか言えない。」これはおかしな話ではないか。これは本当にあなたたちを困らせた。このことについてあなたたちが正確な観点を持たないなら、本当にこのような人があなたたちの教会に来た時、あなたたちはどのように処理するか。適切に処理しなければ、神を犯すかもしれない。これはとても危険なことではないか。

さっきの問題について、わたしがあなたたちの考え方を聞いてみるのはなぜだろう。あなたたちの観点をテストし、あなたたちがいったい神に対してどれほどの認識があるか、神の心意をどれほど理解しているか、神の態度をどれほど知っているかをテストするためである。その答えは何か。それはあなたたちの言った観点だ。一部の者はとても保守的であり、一部の者が言ったのは推測、想像によるものだ。「推測」とはどういうことか。つまり、どう考えても、神が一体どう思うか分からないので、何の根拠もなしに、心の中で神がこう思うだろう、そう思うだろうと推し量ることである。実は自分さえ正しいかどうかを知らないので、こういう曖昧な観点を語り出すのだ。この事実の前で、あなたたちは何が分かったのか。神につき従うと同時に、神の心意を重んじ、神の思いおよび神の人類に対する態度に心を留める人はとても少ない。人は神の思いをよく知らないので、神の心意、神の性質に関する問題を聞かれると、きょとんとなり、胸がどきどきして、当てたり賭けたりするのだ。これはどんな態度なのか。これは、多数の人が神を信じながら、神をあるようなないような空気と見なすという事実を証明する。なぜこう言うだろう。ことが臨むごとに、あなたたちは神の心意を知らないからだ。なぜ知らないだろう。今、知らないのではなく、初めから終わりまでずっとこのことに対する神の態度を知らないのだ。あなたは神の態度を知らず、見極められない。では、あなたは考えたことがあるか、尋ね求めたことがあるか、交わったことがあるか。そうしなかった。これで一つの事実が実証された。あなたが信じている神は本当の神と関係がなく、あなたは神を信じながら、自分の意志を考え、指導者の意志を考え、神の言葉の表面的な教理上の意味を考えただけで、本当に神の心意を理解したり求めたりしなかった。そうではないか。このことの本質はとても恐ろしい!こんなに長い間、わたしはたくさんの人が神を信じるのを見たが、彼らは神を何ものとして信じているのか。一部の者は神を空気として信じている。この人たちは、神が存在するかどうかという問題に対する答えがない。なぜなら、彼は神が存在するかどうかを感じられず、それに気づいておらず、なおさら、はっきりとした悟りや認識がないのであり、彼は潜在意識の中で、神が存在しないのだと思っているからだ。一部の者は、神を人として信じている。つまり、自分ができないことは神もできず、神も自分と同じ考えだろうと思っている。彼の神に対する定義は、「見ることも触れることもできない人」なのだ。また一部の者は、神を人形として信じている。この人たちはこう思っている。神には喜怒哀楽がなく、神は泥で作られた像であって、どんなことが臨んでも、態度を示さず、観点を持たず、考えもないのであり、人の言いなりになり、人は自分の好きなように信じればよく、彼に高大になってほしい時は高大になり、彼にちっぽけになってほしい時はちっぽけになる。人が罪を犯して、神の憐れみ、神の寛容、神の愛を必要とする時、神は憐みを施すべきだ。この人たちは意識や頭で一人の神を想像しては、この神に彼の必要物を供給させ、彼のすべての欲望を満たさせるのであり、いつでもどこでも、彼が何をするにせよ、このような想像によって神を扱い、神を信じている。それにもまして、ある人は神の性質の怒りに触れた後でもやはり、神が彼を救うだろうと思っている。なぜなら、彼はこう思っているからだ。「神様の愛は無限であり、神様の性質は義なるものだから、人がどのように神様を犯しても、神様は覚えない。人の過失、人の過ち、人の不従順は一時的な性質の流露だから、神様は人に機会を与え、しかも人を寛容し、人に我慢し、依然として人を愛してくださる。だから、人が救われる見込みはやはりとても大きい。」実は、人がどのような方式によって神を信じても、真理を追い求めない限り、神は否定的な態度を取る。なぜなら、あなたが神を信じている間、神の言葉の本を至宝と見なして、毎日読み、毎日見ているかもしれないが、でも本当の神をほったらかして、神を空気と見なし、神を一人の人と見なし、ある人は全く神を人形と見なしているからだ。なぜこう言うだろう。わたしの目の前のあなたたちは、どんな事に会っても、どんな環境に会っても、あなたの潜在意識の中にあるもの、内側から生まれるものは、全く神の言葉と関係がなく、真理を追い求めることと関係がないからだ。あなたはただ、自分が何を考えているのか、自分の観点は何であるかを知っているだけだ。それから自分の考え、自分の観点を無理やり神に押しつけて、神の観点と見なし、しかもこの観点を準則としてしっかり守る。このように、時間が経つにつれて、あなたは神からますます遠くなる。

神の態度を知り、神に対す様々な誤解を捨てる

あなたたちが今、信じているこの神は一体どんな神なのか、あなたたちは考えたことがあるか。悪人が悪を働くのを見たら彼は恨むのか。(恨みます。)愚昧な人が罪を犯すのを見たら、彼はどんな態度を取るのか。(悲しみ憂えます。)人が彼への捧げものを盗み食いするのを見たら、彼はどんな態度を取るのか。(恨みます。)これらについてはよく知っている。そうだろう!人がいい加減に神を信じ、全然真理を追い求めないのを見たら、神はどんな態度を取るのか。これはあなたたちがはっきり知らないだろう!「いい加減」という態度は、罪を犯しておらず、神を犯してもいないので、人の心の中では、これが大きな過ちだと思わない。では、あなたは神がどんな態度を取ると思うのか。(相手にしたくありません。)「相手にしたくない」のは、心の中でどんな態度だろうか。すなわち、神はこのような人を軽視し、このような人を蔑視する!このような人に対しては、神は冷淡にあしらう方式を取るのだ。この方式は、ほうっておくこと、すなわち、啓き、照らし、打ちたたき、懲らしめなどの仕事を一切しないことだ。このような人は神の働きの中で、数のうちに入らない。彼の性質の怒りに触れ、彼の行政を犯した人に対して、神はどんな態度を取るのか。極度に憎むのだ!彼の性質の怒りに触れたが、悔い改めようとしない人に対しては、神は極度に怒るのだ!「怒る」ことはただ一つの気分、一つの気持ちであり、一つの明確な態度は代表できない。しかし、このような気分、このような気持ちは人に一つの結末をもたらすのだ。それはすなわち、神に極度に憎まれることだ!では、「極度に憎まれる」ことによってもたらされる結果は何であるか。すなわち、神はこの人を放っておいて、ひとまず相手にせず、「秋の終わりに」一緒に片づける。この言外の意味は何だろう。このような人は結末があり得るのか。神はこのような人に結末を与えるつもりはない!だから、神が今、このような人を相手にしないのは正常ではないか。(はい、正常です。)このような人は今、何を準備すべきか。自分の働いた悪や自分の行為によってもたらされる悪果を引き受ける準備をしろ!これはこのような人に対する神の知らせだ。だから、わたしは今、明確にこのような人に知らせる。いかなる幻想も抱いてはならず、僥倖を望む心理を抱いてはならない。神は無期限に人を容赦し、無期限に人の過ち、人の不従順を我慢することはない。ある人は言うだろう。「わたしも何人かのこのような人に会ったことがあるが、彼らは祈る時、とりわけ神様に感動され、涙を流して激しく泣くのであり、普段でもとても喜んでいて、まるで彼らには神様の同在があり、神様の導きがあるようだ。」でたらめを言うな!涙を流して激しく泣くからと言って、神の感動や同在があるということではなく、なおさら、神の導きがあるということでもない。人が神の怒りに触れたのに、神がまだ彼を導くだろうか。要するに、神がある人を淘汰し、放棄することを決めた時、彼の結末はもうなくなった。彼が祈る時、自我感覚がいくら良くても、心の中で神に対してどれほど大きな信仰があっても、これらはもはや重要ではない。重要なのは、神がこのような信仰を必要とせず、神がもうこのような人を見捨てたことだ。しかも、以後、このような人をどのように処置するかも重要ではない。重要なのは、彼が神の怒りに触れたその時から、彼の結末がもう決まったということだ。もし神がこのような人を救わないと思い定めたのなら、神はこのような人を残して懲罰を受けさせる。これは神の態度だ。

神の本質の中には愛の要素があって、彼は誰に対しても憐れみ深いのだ。しかし、人は、彼の本質には尊厳があるという点をおろそかにし、忘れたのだ。彼に愛があるからといって、人が勝手に彼を犯しても、彼が無感覚、無反応だということではなく、彼に憐れみがあるからといって、彼が人を扱うのに原則がないということでもない。神は生き生きとしていて、実際に存在する神であり、人の想像によって作られた人形或いはある物体ではない。彼は存在しているのだから、わたしたちはどんな時でも彼の心の声に注意して耳を傾け、彼の態度を注意し、彼の気持ちを知るべきであり、人の想像によって神を定義してはならず、また人の思いによるもの、人の望みのものを無理やり神に押しつけて、神に人のやり方、人の想像によって人を扱わせてはならない。もしこのようにするなら、あなたは神の怒りに触れ、神の怒りを試み、神の尊厳に挑戦することになる!だから、あなたたちがこのことの深刻さを知った後、わたしがこの場にいるみなさんに勧めることは、慎重に事を行い、慎重に言葉を言い、神のことについて慎重の上にも慎重で、小心の上にも小心でありなさい、ということだ!神がどんな態度を取るかを知る前に、やたらと話し、やたらとことを行ってはならず、またやたらとレッテルを貼ってはならず、なおさら、勝手に結論を下してはならず、待ち、求めるべきだ。これも神を畏れ、悪から遠ざかる表現だ。もしあなたがこの点を達成することができ、まずこのような態度を持つなら、神は愚かで、無知で、事理をわきまえないあなたをとがめることはなく、むしろ、神に罪を犯すことを恐れ、神の心意を尊重し、進んで神に従おうというあなたの態度のゆえに、あなたを覚え、あなたに啓き、あなたを導き、或いはあなたの幼さ、無知を大目に見るはずだ。さもないと、神はあなたの神に対する傲慢な態度――勝手に神を裁き、勝手に神の意志を推測し、定義する――のゆえ、あなたを罪定めし、懲らしめ、さらには懲罰し、或いはあなたに一つの結論を与える。この結論はあなたの結末に関係するかもしれない。だから、わたしはもう一度強調して、この場にいるみなさんに教えたい。神から来たすべてを慎重に扱うべきで、やたらと話し、やたらと事を行ってはならない。あなたが何かを言おうとする前にまず、「わたしがこのようにすれば、神様の怒りに触れるのではないか。わたしがこのようにするのは、神様を畏れているのか」と考えるべきだ。一つの簡単な事であっても、心の中で多く嚙みしめ、多く考えるべきだ。もしあなたが本当に、どこでも、何事でも、どんな時でも、このような原則に基づいて実行することができ、特に、あなたが分らない事でも、このような態度を取るなら、神はいつでもあなたを導いて、あなたに歩むべき道があるようにする。人にどんな表現があっても、神ははっきりと、明らかに見ることができ、神はあなたのこれらの表現について、一つの正確で適切な評価を下すはずだ。あなたが最後の試練を経験する時、神はあなたのあらゆる行為を総括して、あなたの結末を定めるのだが、この結果はあらゆる人に口先だけではなく、心から承服させる。ここで、わたしがあなたたちに教えたいことは、あなたたちの行うこと、あなたたちのすること、あなたたちが心の中で考えることがあなたたちの運命を定めるのだ。

人の結末は誰が定めるのか

もう一つ最も重要な問題がある。それはあなたたちの神に対する態度だ。この態度はとても重要だ!この態度は、あなたたちが最後に滅亡に向かうのか、それとも神があなたたちのために用意した美しい落ち着き先の中に入るかを決める。王国時代に、神はもう二十数年働いた。この二十数年の間に、あなたたちはみな、心の中で自分の表現をよく知らないかもしれないが、神は心の中で、各々の人のために、はっきりとした偽りのない記録をしておいた。各々の人が、彼につき従いながら彼の語る真理を聞き始めた時から、ますます多くの真理が分かって、人々がみな自分の本分を尽くすようになった時まで、神はこの間の人のさまざまな表現を一々記録しておく。本分を尽くしている間に、いろいろな環境や試練が臨む時、人はどんな態度を取るのか、人の様々な表現はどうなのか、人は心の中で神のことをどう思っているのか……これらを神はみな記帳しており、記録している。これらのことは、あなたたちにあってはぼんやりしているかもしれないが、神にあってははっきりとしていて、いいかげんに扱うことはない。このことはあらゆる人の結末に関係しており、あらゆる人の運命、前途に関係しており、神の心血、代価はみなその中にあるのだから、神はいささかもおろそかにできず、いささかもゆるがせにできない。神は人のためにこのような帳簿をつけており、人が初めから終わりまで神につき従ってきた過程の帳簿をつけている。この間に、あなたが神に対してどんな態度を取るのか、これがあなたの運命を決める。これはとても真実ではないか。今まで、あなたたちは神がとても正しいと思わないのか、神がこのようにするのはとても適切だと思わないのか。あなたたちは神に対してまたほかの想像があるのか。(ありません。)では、あなたたちの結末は神が定めるのか、それとも人自身が定めるのか。あなたたちはどう思うのか。(神様が定めるのです。)誰が定める?(神様が。)まだ知らないだろう!香港の兄弟姉妹がまず言ってみなさい、誰が定める?(人自身が定めるのです。)人自身が定める?それだと、神と関係がないということ?韓国教会の誰かが話してみなさい。(神様は人のあらゆる行為、人の歩む道に基づいて人の結末を定めるのです。)この言葉はとても客観的だ。ここで、わたしがあなたたちに教えたい事実が一つある。神が救いの仕事をしている間に、人のために一つの基準を定めたが、この基準は即ち、人が神の言葉を聞いて、神の道を歩むことができることであり、神はこの基準に基づいて人の結末を判断する。もしあなたが神のこの基準によって実行すれば、よい結末を得ることができ、もしあなたがこの基準によって実行していないなら、よい結末を得ることができない。では、この結末はいったい誰が定めるのか。神が一方的に定めるのではなく、神と人が一緒に定めるのだ。そうではないか。(はい。)なぜこう言うだろう。神は進んで人を救う仕事をしようとし、人のためによい落ち着き先を用意しようとし、人は神の働く対象であり、この結末、落ち着き先は神が人のために用意するからだ。もし働く対象がなければ、神はこの仕事をする必要がない。もし神がこの仕事をしなければ、人は救われる機会がない。人は救われる対象だ。救われる対象は受動的な立場にあるが、この立場にある人の態度は、神が人類を救う仕事を成就することができるかどうかを決める。神があなたに指示しなければ、あなたは基準を知らず、目標がない。基準、目標があるとしても、あなたが協力せず、実行せず、代価を払わなければ、あなたは得られない。だから、この結末は神を離れることも人を離れることもできない。今、あなたたちはいったい誰が結末を定めるのかを知っただろう。

 人はよく経験によって神を限定する

神を認識することについての話題を交わる時、あなたたちはある事実を発見していないのか。今、神の態度が少し変わったことを発見していないのか。神の人類に対する態度は一定不変なのか。神がずっとこのように我慢し、ずっと彼のすべての愛と憐みを無期限に人に施すだろうか。このことはまた神の本質に触れる。またさっきの、放蕩息子が改心するという話題に戻ろう。その問題を聞いた後、あなたたちの答えはそんなに明確でなかった。つまり、あなたたちは神の心意をあまり理解していない。人はいったん神が人を愛すると知ったら、神を愛のしるしと定義する。つまり、人が何をしても、どんな表現があっても、どのように神を扱っても、どのように不従順であってもかまわない。なぜなら、神には愛があり、神の愛は無限だからであり、神には愛があるから、人を容赦することができ、神には愛があるから、人を憐れみ、人の幼さを憐れみ、人の無知を憐れみ、人の不従順を憐れむことができる。本当にそうだろうか。ある人はいったん一度または何度か、神の忍耐を体験したら、これを、神を認識する資本と見なし、神が永遠に彼に我慢し、彼を憐れむと思っており、しかも彼の一生の中で、神の彼に対する忍耐を、神の彼を扱う基準とする。またある人は、一度神の彼に対する寛容を得たら、永遠に神を寛容だと定義し、しかも、この寛容は期限がなく、条件がなく、さらには何の原則もないとさえ思っている。これらの認識の仕方は正しいのか。神の本質、神の性質に言及するたびに、あなたたちはわけが分からなくなる。あなたたちの状態を見て、わたしは本当にのぼせる。神の本質に関わる真理はあなたたちが少なからず聞き、神の性質に関する話題もあなたたちは少なからず聞いた。しかし、あなたたちの頭の中には、これらのこと、これらの面の真理に対する理論や文字的な記憶があるだけで、現実生活の中で、神の性質がどのようであるかを体験し、或いは神の性質がどのようであるかを見ることができる人は一人もいない。だから、あなたたちがみな、わけも分からずに、盲目的に神を信じ、さらには、神に対して傲慢で無視する態度さえ取るのだ。あなたたちの神に対するこのような態度は、何をもたらしたのか。あなたたちがいつも神を限定するようになった。いったん少し分かったら、とても満足して、神のすべてを得たと思い、そして神を限定し、神が動くことを許さない。神が新しい事をすると、彼が神であることを認めない。いつか神が、「わたしはもう人を愛さず、もう人に憐れみを施さず、もう人にいかなる寛容、忍耐も施さない。わたしは人を極度に憎んで反感を持っている」と言ったら、人は心の中でこのような言い方に反感を持ち、こう言う人さえいるだろう。「あなたはもうわたしの神様ではなく、もうわたしがつき従おうとする神様ではない。もしあなたがこのような言葉を言うなら、わたしの神様になる資格がなく、わたしもあなたにつき従う必要がない。もしあなたがわたしに憐れみ、愛、寛容を与えなければ、わたしはあなたにつき従っていかない。あなたが無期限にわたしを容赦し、ずっとわたしに我慢して、あなたが愛であり、忍耐であり、寛容であることをわたしに見せてこそ、わたしはあなたにつき従うことができ、最後までつき従う信仰を持つことができる。なぜなら、あなたが忍耐し、憐れんでこそ、わたしの不従順、わたしの過ちが無期限に容赦され、赦されることができ、しかもわたしはいつでもどこでも罪を犯すことができ、いつでもどこでも罪を告白して赦しを得ることができ、いつでもどこでもあなたの怒りに触れることができるからだ。だから、あなたはわたしに対してどんな意見や判断も持つべきではない。」あらゆる人が心の中で、このように主観的に、意識的にこのような問題を考えたことがないかもしれないが、あらゆる人が神を、罪の赦しを得るための道具、よい落ち着き先を得るための利用対象と見なす時、もう潜在意識の中で、生きている神を自分の対立面に置き、自分の敵と見なした。これはわたしの目で見たことだ。「わたしは神様を信じる」、「わたしは真理を追い求める」、「わたしは性質が変化したい」、「わたしは暗やみの支配から逃れたい」、「わたしは神様を満足させたい」、「わたしは神様に従いたい」、「わたしは神様に忠誠を尽くし、自分の本分をちゃんと尽くしたい」……と、あなたがしきりに言い、その言葉がいくら滑らかに聞こえても、あなたの理論がいくら多く、いかにもっともらしく、立派であっても、事実上、今まで歩んできた多くの人は、もう自分の把握した規定、教理、学説によって神を限定することを学び、自然に神を自分の対立面に置いた。あなたは文字、教理は把握したが、本当に真理の実際の中に入ってはいない。だから、あなたは神に近づき、神を認識し、神を知ることが容易にできない。これはとても悲しいことだ!

わたしは、動画の中でこんな一幕を見た。何人かの姉妹が一冊の「言葉が肉体で現れる」という本を上に挙げ、しかもとても高く挙げていた。彼女らはこの本を真ん中に、そして自分たちの頭の上まで高く挙げた。それは一幅の絵であるけれども、わたしの目にはただの一幅の絵ではなく、あらゆる人が心の中で高く挙げるのは神の言葉ではなく、神の言葉の本だという事実を連想させる。これは悲しむべきことだ。このような行為は全然神を高く挙げるのではない。あなたたちが神を知らないので、一つのとても明らかな問題、とても小さな問題にも、心の中で観念を持っているのだ。わたしがあなたたちに聞く時、わたしがあなたたちに明確な答えを求める時、あなたたちの返事は想像や推測によるものだった。疑いを挟んで反問する人さえもいる。それで、わたしは心の中で、あなたたちが信じているのは本当の神ではないということを、もっと明確に知った。あなたたちがこんなに長い間、神の言葉を読んだ後、再び神の言葉、神の働き、もっと多くの教理によって神を限定するのであり、全然神を知ろうとせず、神の心意を探ろうとせず、神が人に対していったいどんな態度を取るのか、神が心の中でどう思うのか、神がなぜ憂え悲しみ、なぜ怒るのか、なぜ人を見捨てるのかなどなど、これらの問題を知ろうとしない。もっと多くの人は、神が黙っているのは、神が人のさまざまな表現を見ているだけで、それに対して態度や考えがないからだと思っている。「神様が黙っているのは、神様が黙認したからだ。神様が黙っているのは、神様が待っているからだ。神様が黙っているのは、神様が態度を持たないからであり、神様の態度がもう本の中で言い尽くされ、述べ尽くされ、繰り返して随時、それを人に教える必要がないからだ」と思っている人さえいる。神は黙っているけれども、やはり態度や観点を持っており、人に対する要求基準がある。たとえ人が彼を知ろうとせず、彼を求めようとしなくても、彼の態度はやはり明確なのだ。昔、とても熱心に神につき従っていた人が、神を捨てて離れた後、今、戻ろうとするようなことで、あなたたちはなんと、神がどういう観点を持つか、神がどんな態度を取るかを知らないのだ。これは悲しいことではないか。実は、これはとても浅はかなことだ。もしあなたたちが本当に神の心を理解しているなら、あなたたちはこのような人に対して神がどんな態度を取るかを知るはずであり、どっちつかずの返事をすることがない。あなたたちが知らないから、わたしがあなたたちに教えよう。

神の働きの中で逃げた人に対する神の態度

 どこにもこういう一部の人がいる。彼らは真の神の道を確信した後、いろいろな原因のゆえ、黙って離れた。彼らは挨拶もせずに去っていき、自分の好きなことを思いのままにやり放題にした。わたしたちは、しばらく彼らが離れた原因は何であるかを論じない。まず、このような人に対して神がどんな態度を取るかを見てみよう。それはとても明確だ!彼が離れた瞬間に、神から見れば、彼の神を信じる生涯はもう終わった。彼自身がピリオドを打ったのではなく、神が彼にピリオドを打ってあげた。彼が神を離れたことは、彼が神を見捨てて神を必要としないこと、彼がもう神の彼に対する救いを受け入れないことを意味している。彼が神を必要としないのに、神が彼を受け入れるだろうか。しかも、彼がこのような態度、このような考えを持っていて、神を離れることを決めた時、彼はもう神の性質の怒りに触れた。彼が怒り狂って神を罵ったことがないとしても、何か行き過ぎた行為や下劣な行為をしたことがないとしても、心の中で、「いつか、わたしが外で十分に遊んだ時、或いはわたしがまだ神様を必要とする時、或いは神様がわたしを召す時、わたしはまた戻ってくる」と思うか、或いは、「わたしが外で傷ついた時、外の世界があまりにも暗くて邪悪であることを見た時、時流に従いたくない時、わたしはまた戻ってきて神様を探す」と言うとしても、彼らが心の中でいつ戻るかを計画するとしても、彼らが自分のために退路を残しておいたとしても、しかし彼らは、自分がどのように思っていても、どのように計画していても、それはただひとりよがりな考えであることを知らない。彼らの最大の失策は、彼らが離れようとした時、神の心がどう感じたかを知っておかなかったことだ。彼が離れることを決めた瞬間に、神は彼を完全に放棄し、すでに心の中でこの人の結末を定めたのだ。この結末は何だろう。神はこの人を倉の鼠と同じ種類に分け、倉の鼠と一緒に滅ぼす。だから、人は常にこのようなことが見られる。神を見捨てた人がいるが、懲罰を受けてはいない。神が物事を行うのには、神の原則があり、あることは人が見ることができるが、あることは神がただ心の中で決めるのだから、人は物事の結果を見ることができない。人の目で見たことが真実な面だとは限らない。だが、あなたが見られなかったその面こそが、神の心の中での本当の考えと決定だ。

神の働きの中で逃げた人は真理の道から離れ去った人である

では、なぜ神はこのような人にこれほど重い懲罰を与えるのだろうか。なぜ神はこのような人に対して、これほど大きな怒りを発するのだろうか。わたしたちが先ず知っておくべきことは、神の性質は威厳、激しい怒りであり、彼は人の意のままに屠られる羊ではなく、人の意のままに弄ばれる人形でもなく、人にこき使われる空気でもない。もしあなたが本当に神の存在を信じるなら、あなたは神を畏れる心を持つべきであり、神の本質の怒りに触れることは許されないのを知らなければならない。この「怒りに触れる」ことは、ある言葉のゆえであるかもしれないし、ある考えのゆえであるかもしれないし、ある下劣な行為のゆえであるかもしれないし、ある穏やかな行為、人から見れば、倫理の上からも道徳の上からも問題にならないある行為のゆえであるかもしれないし、或いはある学説、ある理論のゆえであるかもしれない。しかし、あなたがいったん神の怒りに触れたら、あなたはもう機会がなくなり、従ってあなたが滅びる日も来るのだ。これは恐るべきことだ!もしあなたが神の犯してはならないことを知らないなら、あなたは神を恐れないかもしれず、常に神を犯すかもしれない。もしあなたがどのように神を畏れるかを知らないなら、あなたは神を畏れるはずがなく、どのように神の道――神を畏れ、悪から遠ざかる――に進入し始めるかを知らない。一旦あなたが心の中で意識して、神の犯してはならないことに気づくことができたら、あなたはどのようにすれば、神を畏れ、悪から遠ざかることかを知ることができる。

神を畏れ、悪から遠ざかる道に進入するには、必ずしも、たくさんの真理を理解し、たくさんの試練、或いはたくさんの懲らしめを経験してこそそれに到達できるのではない。それは、あなたの心が神に対してどういう本質なのか、どんな態度を取るのかにかかっている。人の本質と人の主観的な態度はとても重要で、とても肝心なのだ。神を見捨て、神から離れた一部の人が神の性質の怒りに触れたのは、彼らの神を軽視する態度と、彼らの真理を嫌う心のゆえだ。そういうわけで、神から見れば、彼らは永遠に赦されることはない。彼らは神の存在を知り、神がもう来たという知らせを得たし、神の新しい仕事さえ経験した。彼が離れたのは惑わされた状況の下ではなく、意識が朦朧としている状況の下でもなく、なおさら、脅迫された状況の下ではなくて、意識、頭がはっきりしている状況の下で自ら神を離れることを選んだのだ。彼らが離れたのは、彼らが方向を失ったからではなく、見失われたからでもない。だから、神から見れば、彼らは羊の群れの中の見失われた小羊ではなく、方向を見失った放蕩息子でもない。何はばかることなく離れるような、彼らの有様、彼らの状態が神の性質の怒りに触れたのだ。正にこの「怒りに触れる」ことが、彼らに収拾のつかない結末をもたらした。このような結末は恐るべきものではないか。だから、人が神を知らなければ、神を犯すことができる!これは小さなことではない!もし人が神の態度を何とも思わず、その上に、神が彼の帰りを待ち望んでおり、彼が神の見失われたその小羊なので、神がまだ彼の回心を待っている、と思っているなら、その人は懲罰を受ける日から遠くない。神は彼を受け入れないだけでなく、彼はもう一度神の性質の怒りに触れている。これはもっと恐るべきことだ!彼の神に対する侮る態度は、もう神の行政を犯したのに、神がまた彼を受け入れることがあろうか。このことで、神は心の中でこういう原則を持っている。つまり、人が真理の道を確信した後、意識、頭がはっきりしている状況の下で、やはり神を見捨て、神から離れることができるから、このような背景の下で、神は彼の救われる道を塞いでしまう。その時から、王国に入る大門は彼に閉ざされる。彼がもう一度門を叩く時、神はもう彼のために門を開くことはない、彼は永遠に門外に閉め出される。あなたたちのうち、聖書の中の、モーセについての物語を読んだことのある人がいるだろう。神がモーセに油を注いだ後、モーセのさまざまな表現といろいろな原因で、二百五十人の指導者が不服の気持ちを表した。彼らは誰に不服だったのか。彼らはモーセに対して不服だったのではなく、神の按配、神のしたこのことに対して不服だったのだ。彼らは「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに……」というような言葉を言った。この言葉は人から見ればとてもひどいのか。ひどいではない!少なくとも字句の表面上の意味から見ればひどいではなく、法律から見てもたいしたことはない。なぜなら、表面上では反発する言葉、語彙がなく、なおさら冒涜する意味もなく、それはただ一つの普通の言葉だからだ。しかし、そのような一つの言葉が、どうして神のそれほど大きな怒りを呼び起こしたのか。彼らの言葉は人に向かって言ったのではなく、神に向かって言ったのであり、彼らのこのいくつかの言葉によって表現された性質、態度が、神の性質の怒りに触れ、しかも神の犯してはならない性質に触れたのだ。彼らの最後の結末は、わたしたちが知っていることだ。神を見捨てたことのある人の態度、観点は何なのか。なぜ彼の観点、態度が、神のこのような取扱いを招いたのか。それは彼らが、神だと知りつつも、裏切ることを選んだからだ。そういうわけで、彼らの救われる機会が完全に剥奪された。ちょうど聖書に書いてあるように、「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」今、あなたたちはこのことについてよく分かっただろう。

神に対する人の態度が人の運命を決める

神は生きている神だ。事に当たって、人の表現はさまざまであり、それに対して神はさまざまな態度を取る。なぜなら、彼は人形でも空気でもないからだ。神の態度は人が認識するに値する。人は神の態度を認識することによって、少しずつ神の性質を認識し、神の心を理解すべきだ。あなたが少しずつ神の心を理解する時、あなたは神を畏れ、悪から遠ざかることはそれほど難しくないと感じる。しかもあなたが神を理解した時、たやすく神を限定することがなくなる。あなたが神を限定しない時には、容易に神を犯すことがなくなり、知らず知らずのうちに神に導かれて神に対して認識を持つようになる。したがって、あなたは心の中で神を畏れ敬うようになり、あなたの把握した字句教理や理論をもって無理やり神に当てはめなくて、いつでもどんな事でも神の意志を求めるようになる。そうすれば、あなたは知らず知らずのうちに神の心にかなう人になる。

神のする仕事は人が見ることも触れることもできないが、あらゆる人のなすこと、あらゆる人の神に対する態度を、神は感じ取ることができるだけでなく、見ることもできる。これは、あらゆる人が心の中ではっきり知り、認識すべきことだ。もしあなたが、心の中でいつも「わたしがここでしていることを、神様は知っているだろうか。わたしが思っていることを、神様は知っているだろうか。知るかもしれないし、知らないかもしれない」と思っていて、このような観点をもって神を信じ、神につき従い、それと同時に、このように神の働きと神の存在を疑うなら、あなたは遅かれ早かれ神の怒りに触れるはずだ。なぜなら、あなたはもう危ない瀬戸際にあるからだ。わたしはこのような人を見た。彼らは長年神を信じてきたが、真理の実際を得ておらず、神の心意はなおさら分からず、命の身丈は全然伸びておらず、ただとても浅い道理を守っているだけだ。その原因を追究すれば、彼らは全然神の口の言葉を命として受け入れず、それに神の存在を正視せず、受け入れないからだ。あなたはどう思うか。神はこのような人を見て、享受があるのか、慰めを得るのか。だから、人の信じ方が人の運命を決めると言うのだ。人がどのように追い求めても、どのように神を扱っても、人の態度が何よりも重要なのだ。神の存在を無視して空気と見なしてはならない。どんな時でもあなたが信じている神は生きている、実際に存在する神であることを覚えておくべきだ。彼は第三の天にいてやるべきことがないのではなく、あらゆる人の心、あらゆる人の一挙一動、一言一行、その表現と神に対する態度を、常に監視している。あなたが自分を神に委ねたくても委ねたくなくても、あなたのすべての行為、思いや考えは神の前に置かれていて、神に監視されている。あなたの行い、あなたの挙動によって、あなたの態度によって、神はあなたに対する見方や態度を絶えず変える。でも、わたしはやはり一部の人たちに勧めたい。自分を神の手中の赤ちゃんと思ってはならない。まるで神があなたを非常に寵愛しており、神があなたを離れられないように、またあなたに対する神の態度がいつも変わらないように。夢を見るな!神はだれに対しても公平なのだ。彼は人々を慎重に扱って征服、救いの仕事をする。これは彼の経営だ。彼のあらゆる人に対する態度は真面目であって、人をペットとしてあやして弄ぶのではない。神の人に対する愛は寵愛ではなく、溺愛でもない。彼の人に対する憐れみ、寛容は、甘やかすことではなく、わがままにさせることでもない。逆に、神の人に対する愛は愛護であり、憐れみ惜しみであり、命に対する尊重だ。彼の人に対する憐れみ、寛容の中には、人への期待がある。彼の憐み、寛容は、人類が生きていくための資本だ。神は生きた神であり、実際に存在している神だ。彼の人に対する態度は、原則があるのであって、規定的なものではなく、変わるものだ。彼の人類に対する心意は、時間、環境、あらゆる人の態度の変化につれて、絶えず転換され、変わるのだ。だから、あなたは心の中で、神の本質は一定不変だが、神の性質は異なる時間に、異なる場合で発されることを、はっきりと、明白に知らなければならない。もしかすると、あなたはこのことがあまり重大ではないと思い、自分の観念をもって想像して、神がこのようにすべきだと思うかもしれない。しかし、その逆のこともある。あなたが自分の観念をもって神を評価する時、あなたはもう神の怒りに触れた。というのは、神はあなたの想像どおりにするはずがなく、あなたの言う通りにこのことを扱うはずがないからだ。だから、わたしはあなたに忠告する。あなたの身の回りに起こる事々を慎重に扱うべきであり、何事でも、神の道――神を畏れ、悪から遠ざかる――を歩むという原則によって実行することを学ぶべきだ。神の心意、神の態度に関わることで、はっきり見極めるべきであり、弁えている人を探して交わり、真剣に尋ね求めるべきであって、あなたの信じている神を人形と見なしてはならない。つまり勝手に裁き、勝手に結論を下し、いい加減に扱ってはならない。神があなたを救い、あなたの結末を定める過程の中で、あなたに憐れみ、寛容を施しても、あなたに裁き、刑罰を施しても、とにかく、彼のあなたに対する態度は一定不変ではない、それはあなたの神に対する態度と認識にかかっている。あなたは自分が神のある面について認識や理解を持っているからといって、一度で永遠に神を定義してはならない。死んだ神ではなく、生きた神を信じるべきだ。覚えたのか!わたしの一部の言葉は実情であり、あなたたちにとって必要なものでもあるが、あなたたちの今の状態、今の身丈のゆえ、わたしはもっと高い要求を出してあなたたちの積極性をくじきたくない。それは、あなたたちが物悲しさを感じず、神に大いに失望せず、神を愛する心をもって、神を尊重する態度をもって、これからの道を歩むことを希望するからだ。神を信じることをいいかげんに扱わないで、最も大きな事として扱うべきであり、それを心に留めて、実際と結び合わせ、現実生活と結び合わせるべきであり、ただ口先だけで言うべきではない。なぜなら、このことは致命的なこと、あなたの運命を決めることだからだ。このことを笑い話、児戯と見なしてはならない!今日、あなたたちに言ったこれらの言葉を通して、あなたたちは心の中で何か分かったのか、何か収穫を得たのか。わたしの言ったこれらの言葉について、あなたたちはまだ疑問があるのか。

これらの話題は少し新しく、あなたたちの観点、あなたたちが普段追い求め、重んじるものとは少し隔たりがあるが、あなたたちが一定の期間交わったら、わたしのこれらの言葉に対して共通の認識を持つようになると、わたしは思う。これらの話題は新しくて、あなたたちが今まで考えたこともないものだから、これらの言葉があなたたちにいかなる重荷も負わせないように希望する。今日、わたしがこれらの言葉を言うのは、あなたたちを驚かすためではなく、こういうやり方であなたたちを対処するためでもなく、あなたたちに事実の真相を知らせるためだ。何と言っても、神と人との間には隔たりがあるのだから、人は神を信じているが、全然神を知らず、神の態度も知らず、しかも人はそれほど熱心に神の態度に関心を寄せておらず、ひたすらこのように信じ、このように歩んでいて、神を知り、神を認識することをいいかげんに扱っている。だから、あなたたちにいくらかのことをはっきり話す必要があると、わたしは思う。それは、あなたたちが信じている神はどんな神か、彼は心の中で何を考えているのか、彼はさまざまな人に対してどんな態度を取るのか、あなたたちが行うことは彼の要求に比してどのくらいの差があるのか、彼の要求する基準よりどのくらいの距離があるのかを、あなたたちに知らせるためだ。あなたたちにこれらを知らせるのは、あなたたちが心の中で判断する尺度を持ち、自分がこの道で何の収穫を得たのか、まだ得ていないものがどのくらいあるか、どんな領域には全然入っていないかを把握するためだ。普段あなたたちが交わる時は、ただ人々がよく言う話題を語るだけだ。それは範囲が狭く、内容が浅く、神の心意や神が人に要求する範囲、基準とは隔たりがあり、差がある。このままでいけば、あなたたちは神の道からますます遠く離れるに違いない。あなたたちはただ神の今のこれらの言葉を、崇拝の対象、儀式や規定と見なしているだけだ!実は、あなたたちの心の中には全然神の地位がなく、神もあなたたちの心を得ていない。ある人たちは、神を知ることはとても難しいと思っている。これも事実だ。確かに少し難しい!もし人に本分を尽くせる時、外側の仕事を任せ、力を出させるなら、人々は神を信じるのが容易なことだと感じる。これは人類の能力でできることだからだ。しかし、神の心意、神の人に対する態度という領域に触れると、人々にとって確かに難しいのだ。これは人が真理を理解し、実際の中に入ることに関わるので、もちろんある程度難しい。しかし、あなたが足を踏み出し、進入し始めたら、だんだん難しくなくなる。

神を神として扱うことこそが、人が神を畏れる始まりだ

さっき誰かが、「なぜわたしたちの神様に対する認識はヨブのより多いが、神様を畏れないのか」という質問をした。これについて先ほど少し話した。そうだろう。実は、この問題の本質についてわたしたちはもう話した。その時、ヨブは神を知らなかったが、彼は神を神として扱い、神を天地万物の支配者と見なした。彼は神を敵と見なさず、神を造物主として礼拝していた。しかし、今の人はどうしてこのように神に逆らうのか。どうして神を畏れることができないのか。その原因の一つは、今の人がサタンに極めて深く堕落させられ、サタン的な本性が深く根を下ろしていて、人が神の敵となったからだ。だから、人が神を信じ、神を認めても、やはり神に逆らい、神に敵対することができる。これは人の本性によって決められている。もう一つの原因は、人が神を信じているが、全然神を神として扱わず、神を人の対立面、人の敵と見なして、神と共存できないほど神に敵対しているからだ。原因はこんなに簡単だ。これはさっきの交わりの中で少し言及しただろう。これが原因であるかどうか、あなたたちは考えてみなさい。あなたは神に対して少しの認識を持っているが、あなたの認識は何であるか。みんなが議論しているものではないか。神があなたに教えたものではないか。あなたはただこの面についての理論、教理を知っただけだ。ところが、神の真実な面に対して、あなたは体得があるのか、主観的な認識があるのか、実際の認識と体験があるのか。もし神があなたに教えなければ、あなたは知ることができるのか。あなたが理論を知ることは、あなたが本当の認識を持つことを意味しているのではない。とにかく、あなたがどのようにして知ったとしても、どのくらい知ったとしても、あなたが神に対して本当の認識を持つ前に、神はあなたの敵であり、あなたが神を神として扱うことができる前に、神はやはりあなたの対立面に立っている。なぜなら、あなたはサタンの化身だからだ。

あなたがキリストと一緒にいる時、彼の一日三食の面倒を見ることができるかもしれないし、彼にお茶や水を供し、彼の生活に仕えることができるかもしれなくて、まるでキリストを神として扱ったようだ。あることが起こる時、人の観点はいつも神の観点と食い違い、神の観点は人がいつも理解し、受け入れることができない。うわべでは、人は彼と仲よく付き合うことができるが、しかし、これは人が彼に味方することを意味しているのではない。いったんことが起ったら、人の不従順の本性が現れる。これは人と神が敵対していることを立証する。人と神が敵対しているのは、神が人と対立し、人を敵視し、人を自分の対立面に置いて扱うからではなく、人の主観的な意志の中に、人の潜在意識の中に、神と対立するこのような本質があるからだ。人は神から来たすべてを研究の対象と見なすので、神から来たもの、或いは神に関係するものを取り扱う時、最初の反応は、推測し、疑うのである。それから、人はすぐ反発する態度を取って神に敵対する。まもなく、彼は消極的な気持ちを抱いて、神と「言い争い」、或いは腕比べし、さらには、このような神は彼がつき従うに値するかどうかさえ疑う。彼の理性が彼に、こうすべきではないと教えるとしても、彼は依然として、思わずこのように選択し、さらには「少しも揺るがず」最後までやり通すはずだ。たとえば、ある人たちが神に関するデマや誹謗を聞いた時、人の第一反応は何であるか。第一反応は、「このデマが本当かどうか、存在するかどうか知らないから、様子を静観してみよう」ということだ。それから人は、「このことは確認しようがない。一体こんな事があるかどうか。このデマは本当かどうか」と考えてみる。うわべでは、彼は何も表していないが、心の中ではもう疑い始め、もう神を否み始めた。彼のこのような態度、観点の本質は何か。裏切ることではないか。事が臨まない時、あなたは彼の観点を見いだすことができず、まるで彼が神に抵触せず、神を敵と見なしていないようだ。しかし、事が臨むと、彼はすぐサタンの側に立って神と敵対する。この事実は何を証明するのか。これは、人が神と対立していることを証明する。神が人を敵と見なしたのではなく、人の本質そのものが神を敵視しているのだ。人がどんなに長い間神につき従ったとしても、どれほどの代価を払ったとしても、どのように神を賛美するとしても、どのように自分を抑えて神に逆らわないとしても、さらには、自分に神を愛することを要求するとしても、人はどうしても神を神として扱うことができない。これは人の本質によって決まるのではないか。もしあなたが彼を神として扱い、本当に彼が神だと思うなら、あなたは彼を疑うことがあろうか。心の中で彼に対して疑問を持つことがあろうか。そんなことはないだろう。この世界の潮流がこんなに邪悪で、この人類がこんなに邪悪なのに、あなたはどうして彼らに対して観念を持たないのか。あなたがそんなに悪いのに、あなたはどうして自分に対して観念を持たないのか。いくつかのデマ、誹謗が、あなたに神に対してそんなに大きな観念、そんなに多くの意見を持たせた。あなたの身丈がどんなに幼いかが分かる!何匹かの蚊、臭い蠅が「ブンブン」としたら、あなたは惑わされたのか。これはどういう人なのか。神がこのような人をどう思うかをあなたは知っているのか。これらの人に対する神の態度は、実はとても明確だ。これらの人に対して、ただほったらかしておく態度、すなわち相手にしない態度を取るだけで、彼はこれらの無知な人に対して真剣でなかった。これはなぜだろう。神の心の中では、命をかけて最後まで彼に敵対し、全然彼に味方する道を求めようとしないこの一部の人を得るつもりは全くないからだ。わたしがこう言うと、また一部の人を傷つけたかもしれない。では、あなたたちはわたしがいつもこのようにあなたたちを傷つけることを望むのか。それを望んでも望まなくても、とにかくわたしの言うことは事実だ!わたしがいつもこのようにあなたたちを傷つけ、あなたたちの痛いところを突くと、あなたたちの心の中の高大な神の姿に影響を与えないのか。(与えません。)わたしもそう思う!それは、あなたたちの心の中には神が存在しないからだ。あなたたちの心の中で、極力守り、保護しているその高大な神は全然神ではなく、人の想像によるものであり、それは全く存在しない。だから、やはりわたしが真相を暴いたほうがいい。そうすれば、「真相がすっかり明らかになる」のではないか。真の神は人の想像によるものではない。あなたたちには現実に直面してほしい。そうしてこそ、あなたたちが神を認識するのに有利だ。

 神に是認されない一部類の人

神の心の中で、一部の人の信仰は全く是認されていない。つまり、神はこの一部の人を神の追随者だと認めない。というのは、神は彼らの信仰を良しと認めないからだ。この一部の人は数年神につき従っていたが、彼らの思想観点は変わったことがなく、彼らは異邦人と同じように、異邦人の処世の原則、方式を守っており、異邦人と同じような生存法則、信念を守っている。彼らは神の言葉を命として受け入れたことがなく、神の言葉が真理だと信じたこともなく、神の救いを受け入れるつもりは全然なく、しかも、神を彼の神だと認めない。彼らは神を信じることを余暇の趣味とし、神を一種の心の支えとしているだけだ。だから、彼らは神の性質、神の本質は知るに値しないと考える。本当の神のすべては彼らと何の関係もない、と言ってもいい。彼らはそれに関心を寄せようとせず、それに取り合う気になれない。なぜなら、彼らの心の奥底には一つの極めて強い声があって、いつも彼らに「神は見ることも触れることもできない。神は存在しない」と教えるからだ。彼らはこう思っている。「このような神様を知ることは、無駄な骨折りをし、自分で自分を弄ぶことだ。口先だけで認めて何の態度も表明せず、何の実際の行動もしない。それでこそ本当に聡明だ。」この一部の人を神は何と見なすのか。神は彼らを異邦人と見なす。一部の人はこう言う。「異邦人は神様の言葉を読むことができるのか、本分を尽くすことができるのか、神のために生きるという言葉を言うことができるのか。」人が見るのは往々にして人の外側の表現であり、人の本質を見ることはできない。しかし、神は人の外側の表現を見ないで、人の心の中の本質だけを見る。そういうわけで、これらの人に対して、神はこのような態度を取り、このような定義を下すのだ。これらの人が言う「神様はなぜそのようにするのか、なぜこのようにするのか。このことはわたしが納得できない、あのことはわたしが納得できない。このことは人の観念に合わない。あのことについて解釈してください……」という言葉に対して、わたしはこう答える。「あなたに対して解釈する必要があるのか。この事はあなたと関係があるのか。あなたは誰なのか。あなたはどこから来たのか。あなたは神のことをとやかく言う資格があるのか。あなたは彼を信じるのか。彼はあなたの信仰を認めるのか。あなたの信仰が神と何の関係もないのに、彼のすることはあなたと何の関係があるのか。あなたは神の心の中での自分の位置も知らないのに、神と対話する資格があるのか。」

 忠告の言葉

これらの言葉を聞いた後、あなたたちはつらいだろう。これらの言葉はあなたたちが聞きたくないか、或いは受け入れたくないけれども、それはみな事実だ。この段階の仕事は神がするのだから、あなたが神の心意、神の態度に関心を持たず、神の本質と性質を知らなければ、最後に損をするのはあなた自身だ。わたしが聞き苦しい話をしたことをとがめず、わたしの言葉があなたたちの心を凍らせたことをとがめないでほしい。わたしの言ったことはみな事実であり、あなたたちにショックを与えるためではない。あなたたちに何をさせても、どのようにさせても、わたしはあなたたちが正しい道を歩み、神の道を歩み、正しい道からそれないことを希望する。もしあなたが神の言葉通りに行わず、彼の道を歩まなければ、あなたは疑いなく神に背いて正しい道からそれている。だからわたしは、これらのことをあなたたちにはっきり話す必要があると思う。そうすれば、あなたたちはいい加減にではなく、明白に、はっきりと信じることができ、あなたたちは、神の態度、神の心意、神がどのように人を完全にするか、どのような方式によって人の結末を定めるかを明確に知ることができる。いつか、あなたがついて来られなくなるとしても、わたしはわたしに責任がないと言う。それは、多くの言葉はもうあなたにはっきりと言ったからだ。あなたがどのように自分の結末を扱うかは、完全にあなた次第だ。異なる人の結末を定める上で、神は異なる態度を取る。彼には彼の評価のし方、彼の要求基準がある。この評価基準は誰に対しても公平だ。これは疑う余地のないことだ!だから、一部の人の心配はいらないのだ。これで安心するだろう。じゃ、今日はここまで。さようなら!

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