唯一の神自身 5

唯一の神自身 5

神の聖さ(その2)

皆さん、こんばんは。(全能神よ、こんばんは。)兄弟姉妹の皆さん、本日は皆で賛美歌を歌おう。あなたがたが好きで頻繁に歌う賛美歌から選んで欲しい。(神の御言葉の賛美歌「汚れ無き純真な愛」を歌いたい。)

(おり返し):「愛」とは、心で愛し、感じ、思いやる、汚れ無き純真な感情。愛には条件を付けることも、障壁も、距離も無い。愛には疑いも、偽りも、見返りを求めることも、ずるがしこさも無い。愛においてはすべてが宿命で、汚れが無い。

1.そのような愛があるならば、騙したり、不平を言ったり、裏切ったり、逆らったり、金銭や物を求めたり受け取ったりしてはならない。愛しているならば、喜んで自らを捧げる。

2.そのような愛があるならば、喜んで困難を乗り越え、神に協力する。自分の家族、将来、若さ、結婚など、自分の全てを神に捧げる。それができないのであれば、あなたの愛は、愛ではなく、騙しと裏切りである。

あなたがたが選んだ歌は、良い歌である。あなたがたはこの歌を歌うのが好きだろうか。(好きだ。)この歌を歌った後、あなたがたは何を感じるだろうか。あなたがた自身の中に、このような愛を感じることが出来るであろうか。(まだ感じることが出来ない。)この歌の歌詞のなかで、最も深い感銘を受ける言葉はどれであろうか。(「愛には条件を付けることも、障壁も、距離も無い。愛には、疑いも、偽りも、見返りを求めることも、ずるがしこさも無い。愛においては、すべてが宿命で、汚れが無い。」という部分である。しかし、自分自身には未だに不純な部分や、神に見返りを求めようとする部分など、至らない部分があるので、今の時点で自分自身について考えた場合、自分は汚れのない純真な愛に至っていないと考えている。)汚れのない純真な愛に至っていないとすると、あなたの愛はどのような愛だろうか。あなたの中には、どの程度の愛があるだろうか。(私は進んで求め、熱望している段階にあるにすぎない。)自分自身の背丈と、自分自身の経験から得た言葉を用いると、あなたはどの段階に達しているだろうか。あなたには偽りや不平不満があるだろうか。(ある。)あなたの心の中には、神に対する要求や神から欲するものがあるだろうか。(そうした汚れたものがある。)そうしたものは、どのような状況で現れるであろうか。(神が私のために定められた状況が、私が考える然るべき状況と合致しない場合や、私の望みが叶わなかった場合に、そうした腐敗した性質が現れる。)あなたがたはこの歌を頻繁に歌うだろうか。あなたがたは「汚れ無き純真な愛」をどのように解釈しているか、また神が愛をこのように定義されている理由を、説明できるだろうか。(私自身この歌が大好きだ。この愛が完全な愛ということが良く分かるからだ。しかし、私はその基準から程遠いと感じる。現在、私は特定の物事なら進んで犠牲にし、真理を求めるためにある程度の代償を払うものの、何かが私の将来や運命に影響を与えると、心の中で葛藤を覚える。胸中に神に対する確信が少ししかないことが分かる。)(現時点では真実の愛から程遠いところにいると感じるが、真実の愛に向かって進歩した点もいくつかある。そのひとつとして、神の御言葉から与えられた強さによる進歩がある。もうひとつは、自分のいる状況下で祈りにより神と協力することによる進歩がある。しかし、存在に関する私の見方が関連する場合、私はそれを乗り越えられないと感じることがある。)それを乗り越えられない場合、あなたを阻むものごとについて考えたことはあるだろうか。あなたは、その問題について自分を省みたことがあるだろうか。(はい、自分を省みてはいるが、それは専ら自尊心と虚栄心、そして将来や運命に対する期待であり、それらが大きな障害となっている。)将来や運命に対する期待が障害となる場合、そうした物事がそれほどまで大きな障害となる理由について、あなたは考えたことがあるだろうか。そうした将来や運命は、どのようにして障害となるであろうか。あなたは、自分の将来や運命に対して、何を望むであろうか。(その問題については、すべて明確に理解していないが、時々自分の将来や運命が無いと感じたり、神により明示された物事において、終着点が見出せないと感じたりすることすらある。こうした場合、私は自分が弱いと感じるが、それが自分にとって大きな障害となっていると感じる。しかし、一定期間の経験と祈りにより、状況が転換点を迎えることもあるが、この問題により動揺させられることが往々にしてある。)あなたは、「将来や運命」と言った場合、それは正確に何を指すものであろうか。(それは、神が私のために、ある状況を定められた場合に、自分が神の必要条件に遠く及ばないと感じる、ということである。神が私を明示されるかどうかと疑うことがあり、また私には宿命も終着点も無いと感じ、自分が弱いと感じる。)あなたがたは、「将来や運命」と言った場合、それは正確に何を指すものであろうか。何かあなたが指摘できる物事はあるだろうか。それらは、イメージや、あなたが思い描く物事であろうか、それとも実際に見ることが出来るものであろうか。それは実在するものであろうか。(それは終着点である。)終着点とは、何であろうか。あなたの将来とは、何であろうか。あなたがたの胸中にある、将来や宿命に関する懸念とは何かを、あなたがた各人の心の中で、考えねばならない。(それは救われ、生き長らえることであり、また徐々に神のために役立てる存在となり、自分の役割を基準に達する程度に果たす望みである。こうした事柄が神により明示されることが多いが、自分が至らないと感じる。)他の人も発言して欲しい。あなたがたは「汚れ無き純真な愛」をどのように解釈しているだろうか。(ある者に由来する不純な部分が一切無く、かつその者の将来や運命により支配されていない愛である。神がその者をどのように扱われるかを問わず、その者は神の御業と采配に完全に服従し、最後まで神に付き従うことができる。神に対するこうした愛のみが汚れ無き純真な愛である。神を信じた数年間、表面的には何らかの物事を犠牲にし、代償を費やしてきたが、本当に自分の心を神に捧げることが出来ないままであったということは、そうした愛と自分自身を比較してはじめて分かる。神が私を明示される時、私は救われ得ない者の性格を備えているかのように感じ、そうした消極的な状況の中に留まる。自分自身が本分を尽くしているのは分かるが、それと同時に神に対して見返りを求めようとしたり、神を心から愛すことが出来なかったりし、また心の中には常に自分の終着点や将来、運命がある。人間の交わりのなかで、人間は自らの本分を尽くして神の愛に応え、空虚な言葉だけでは無く愛を心から表現する必要があると言われたのを覚えている。それと比べると、自分はそうした愛から程遠い所にいると感じる。)

あなたがたは頻繁にこの歌を歌い、この歌に関するある程度の理解があり、この歌はあなたがた自身の経験と何らかの繋がりがあるようである。しかし、「汚れ無き純真な愛」という歌の各フレーズに、ほぼ全員が個々に異なる段階の受け止め方をしている。率先的な者もいれば、自分の将来をなげうつことを求めている者や、家族をなげうつことを求めている者、見返りを一切求めない者もいる。その一方で、自分自身に対して偽りや不平不満を持たないこと、神に対して反抗しないことを求めている者もいる。神がこのような愛を提案し、このように人間が神を愛することを求める必要があるのは何故であろうか。この種の愛は、人間が達成し得る愛であろうか。つまり、人間はこうした形で愛することができるであろうか。それが不可能であると思う人々もいるが、それは、そうした人々にはこの種の愛が一切無いからであり、したがってそうした人々がそうした愛を持っていないので根本的に愛を知らないので、神はそうした人々が全く馴染みの無い、このような言葉を述べられている。人間はこの世界で生活し、自らの腐敗した性質の中で生活しているので、仮にこの種の愛を持っているかあるいは獲得でき、何も要求したり命令したりすることなく、自らを進んで捧げ、進んで試練を受け、自らの持つ全ての物事をなげうつことができる人間がいるとしたら、そうしたこの種の愛を持つ人間は、他の人間からどのように思われるであろうか。そうした人間は、全き人ではないだろうか。(そうである。)この世界に、そうした全き人が存在するだろうか。そうした人間は存在しないのではないか。この種の人間は、その人間が真空の中で生活していない限り、絶対にこの世界に存在しないであろう。そうではないか。したがって、一部の人々は、自らの経験により、こうした言葉により述べられている状態に達するまでに、大いに努力する。こうした人々は自分自身と向き合い、自制し、継続的に自我を捨てさえする。こうした人々は苦難に耐え、それまでの誤った考え方を捨てる。またこうした人々は神に対して反抗していた部分を捨て、自らの願望や欲望を捨てる。しかし、結局それらの必要条件に達し得ない。それは何故だろうか。神は、この言葉を述べることにより、人間が従うべき基準を与え、神が人間に対して求めている基準を人間が知ることができるようにしている。しかし、人間がこの基準を即座に満たす必要がある、と神は述べているであろうか。人間がこの基準に到達するまでの所要時間について、神は述べているであろうか。(述べていない。)神は、このようにして神を愛する必要があると述べているであろうか。この聖句では、そうしたことが述べられているであろうか、というと、述べられていない。神は、単に神が言っている「愛」について人間に伝えている。人間がこのようにして神を愛し、扱うことが出来るようになることに関する神の必要条件は、どのようなものであろうか。即座にそのような人間になる必要は無い。なぜなら、それは人間にとって不可能だからである。あなたがたは、このようにして神を愛するために人間が満たさなければならない条件がどのようなものかについて、考えたことがあるだろうか。人間が頻繁にこの言葉を読んだとしたら、人間は次第にこの愛を身に付けられるであろうか。(身に付けられない。)それでは、どのような条件があるであろうか。まず、人間は、どのようにすれば神に関する疑念が無い状態となることができるであろうか。(それが可能なのは正直な人間のみである。)騙すことを無くすことについては、どうであろうか。(それについても人間は正直である必要がある。)神から見返りを求めない人間になることについては、どうであろうか。これについても人間は正直である必要がある。ずるがしこさを無くすことについては、どうであろうか。愛においては、すべてが宿命である、というのは、何を指すものであろうか。これらは皆、正直な人間になることについて述べているであろうか。これらの言葉には、この種の愛を育む神の力や、この種の愛を定義する神の力など、多くの詳細がある。このように述べることにより確認されることは何であろうか。神にはこの種の愛があると言えるであろうか。(そう言える。)そのことは、何によって確認できるであろうか。(神の人間に対する愛で確認できる。)神の人間に対する愛には、条件があるであろうか。(無い。)神と人間の間には障壁や距離があるであろうか。(無い。)神は人間を疑っているであろうか。(疑われていない。)神は人間を見守り、理解している、そうではないか。(その通りである。)神は真に人間を理解している。神は人間を騙そうとするであろうか。(そのようなことは無い。)神はこの愛について極めて完璧に述べているが、神の心や本質は極めて完璧であろうか。人間はかつて愛をこのように定義したことがあったであろうか。(無い。)人間は、どのような状況において愛を定義してきたであろうか。人間は愛についてどのように語るであろうか。それは、与えること、捧げることではないか。(その通りである。)人間の愛は単純であり、本質が欠如している。

神による愛の定義、そして神が愛について述べる方法は、神の本質の一側面と関連しているが、その側面とは何であろうか。前回は、極めて重要な主題に関して伝えたが、それは人間が頻繁に取り上げて議論してきた事項であり、神への信仰のなかで頻繁に述べられる言葉であるが、その言葉は人間にとって親しみがあり、しかし馴染みの薄いものでもある。しかしそれは何故だろうか。それは人間の言葉に由来する言葉であり、人間にとってその定義は明瞭でありかつ曖昧でもある。しかしその言葉とは何であろうか。(聖さである。)そう、聖さである。それが前回伝えた主題であった。この主題については少し伝えたが、伝えた内容は不完全であった。前回伝えた部分に基づいて、全員が神の聖さに関して新たな認識が得られたであろうか。(得られた。)その新たな認識とは何であると、あなたがたは考えているであろうか。つまり、その認識ないし言葉のうち、神の聖さについてわたしが伝えた事柄が、神の聖さに関するあなたがたの認識と違う、あるいは差があるとあなたがたに感じさせた事柄は、何であろうか。あなたがたは覚えているだろうか。前回伝えた事柄は印象に残っているであろうか。(神は、神の御心で感じられていることを述べられ、それは純真である。これが聖さのひとつの側面である。)それはひとつの側面である。そのほかには、何かあるだろうか。(神が人間に対して怒りを感じる場合にも聖さがあり、それは汚れが無いものである。)(神の権威に、完全さ、誠実さ、知恵、そして万物支配を見る。これらの事柄を理解している。)「万物支配」は神の権威に関する事柄である。ここでは神の聖さについて話をしている。(神の聖さに関し、神の義なる性質には、神の怒りと憐れみがあるということが分かった。それが印象深かった。そのことでは、神の義なる性質が唯一のものであることについても伝えられたが、以前はそうした理解もなく、そうした定義付けもしていなかった。しかし前回伝えられた中で、神の怒りが人間の怒りとは違う事について語られた。神の怒りは、いかなる創造物にも無いものである。神の怒りは肯定的なものであり、原則に基づくものであり、神固有の本質が原因となって与えられるものである。その原因は神が悪なるものを見られたことであって、それにしたがって神の怒りが発せられる。神の憐れみもまた、いかなる創造物にも無いものであることが分かる。人間の行いが善良であり、義なる行動で、憐れみと類似していると考えられる場合でも、それは純真ではなく、その背景には動機がある。いわゆる憐れみには、偽のものや空虚なものさえある。しかし、神が人間に対して憐れみを示された時、そこに神の救いを見てきたが、その憐れみにより人間は直接的に救いの道に置かれる。その憐れみにより、人間は神を信仰する正しい道に置かれるので、人間は美しい終着点と希望を与えられる。このように、神の憐れみは神の本質に含まれている。したがって、神が怒りによって、ある町を滅ぼされたとしても、神には憐れみ深い本質があるので、神は時間や場所を問わずに憐れみを示され、その町の人々を保護されることができる。私はそのように理解している。)あなたは、神の義なる性質について、ある程度理解している。

たった今あなたがたに質問した時、あなたがたのうち大部分の者が、神の愛は極めて大きく、また実在するものであると認識しているが、あなたがたには神の聖なる本質に関する認識が欠如している。本日の主題では、この部分、すなわち神の聖さに関する認識について話をする。人間は往々にして神の義なる性質と神の聖さを関連づけ、また人間は皆神の義なる性質について知っているし、その詳細について聞いたことがある。さらに、多くの人々が、交わりの中で神の義なる性質は聖なるものであると言って、神の聖さと義なる性質を結びつける。「聖さ」という語については、皆知っており、一般に用いられる語であるが、この語の含意について、人間は、どのような聖さの現れを見ることが出来るであろうか。神は、人間が認識可能なものとして、何を明示しているであろうか。残念ながら、これについて知っている者はいない。神の性質は義であると言うが、神の義なる性質について、それが聖なるものであると言った場合、それは少し曖昧に感じ、困惑する。何故であろうか。神の性質が義である、あるいは神の義なる性質が聖なるものであると言うが、あなたがたの心の中では、神の聖さにはどのような特徴があり、神の聖さをどのように理解しているであろうか。つまり、人間が聖なるものであると認識するのは、神が明示したものごとや、神であるすべて、神の持っているすべてであろうか。あなたがたは今までそうしたことについて考えたことがあるだろうか。人々が一般に用いられる言葉を頻繁に述べることや、人々が何度も繰り返して言う文句がある一方で、そうした人々は自分が言っていることをまったく知らない、という状況が見受けられる。人々は皆、そのように習慣的に口にするので、それが決まり文句になる。しかし、そうした人々がそれを詳しく調べたとしたら、自分はそうした決まり文句の真意や、それが何を指すかを知らないということに気付くであろう。たとえば「聖なる」という言葉は、神の聖さに関し、それが神の本質のどの側面を指しているかを知っている者はいない。「聖なる」という言葉を神と調和させることに関して知る者はおらず、人々は困惑し、神が聖なる存在であることの認識のしかたは、広範にわたる。しかし、あなたがたがそのことを考えた場合、神はどのように聖なる存在であるのであろうか。それを知っている者はいるだろうか。残念ながら、この問題について明瞭に把握している者はいない。本日は、神の聖なる本質に関する実際の内容を理解できるように、「聖なる」という言葉を神と調和させるという主題について伝える。そうすることで、一部の人々が、不注意にこの言葉を習慣として用いたり、意味を知らず、自分の考えが正しいか否かを知りもしないのに、物事をみだりに語ったりするのが防がれるであろう。人々は、常にこうした話し方で「聖なる」という言葉を用いる。あなたも、私も「聖なる」という言葉を用いるが、それが人々の習慣的発言となり、よって意図せず「聖なる」という言葉を汚している。

「聖なる」という言葉は、表面的には極めて分かりやすいであろう。人々は、少なくとも「聖なる」という言葉が、たった今歌った聖歌「汚れ無き純真な愛」の内容のように、「清らかで汚れなく、神聖で純粋であることを意味すると考えている。この聖歌では「聖なる」と「愛」が組み合わされているが、神の愛は神の本質の一部であるので、これは正しいが、それが全てではない。しかし、人間の考えでは、この言葉を純粋で清らかである、あるいは汚れや染みがないと自分が思うものごとと関連づける傾向がある。たとえば、蓮の花が清らかであると言う人々がいるが、そうした人々は、どのようにしてこの花をそのように定義しているだろうか。(「蓮の花は泥の中で育つが、汚れのない花を咲かせる」)泥水の中から汚れない花を咲かせるので、人々は蓮の花に「聖なる」という言葉を適用するようになった。誰かが書いた恋愛小説やその内容を聖なるものと考える人や、偉業を成し遂げる架空の主人公を聖なるものと考える人々もいる。さらに、聖人や使徒、神が働く時に神に従った人々など、聖書の登場人物や霊的内容を取り扱う書籍で取り上げられている人物について、そうした人物の霊的体験が聖なるものであると考える人々もいる。こうした事は、全て人間が考えた物事であり、人間が考える概念である。人間がこうした概念を抱くのは何故であろうか。その理由はひとつであり、その理由は明解である。それは、人間が腐敗した性質のなかで生活し、邪悪と汚れの世界に住んでいるからである。人間が見るもの、触れるもの、体験するものは、全てサタンの邪悪さと堕落であり、サタンの影響下における人間同士に発生する策謀と内紛、戦争である。したがって、神が人間に対して業を行う時、さらには人間に言葉を述べ、人間に対して神の性質と本質が示された時ですら、人間は聖さとは何かを理解し、受け容れることが出来ない。その上、このことは、神は聖なる存在であると人間が頻繁に述べる根拠となっている。人間は汚れと腐敗のなかで生活しており、サタンの支配下にいるため、人間は光を見ず、有益な物事を知らず、また真理を知らない。したがって、聖さとは何かを真に知る者は、ひとりもいない。それを踏まえると、腐敗した人間世界に聖なる物や聖なる人間が存在するであろうか。(存在しない。)確実に存在しないと言える。なぜなら、聖なるものは、神の本質のみだからである。前回は、神の本質の聖さに関して少し伝え、伝えた内容は神の聖さに関する人間の知識を知る手がかりとなったが、十分な内容ではない。前回の内容は、人々が神の聖さや、神の聖さが唯一無二のものであることを完全に理解する上で十分に役立てられるものではない。さらに、前回の内容では、神において完全に具現化されている聖さの真の意味に関する側面を人々が理解できるようにすることが、十分にできない。したがって、この主題に関して引き続き伝える必要がある。前回の第3部においては、3つの事項について話をしたので、ここではまず聖句を読むことから始めて、4番目の事項について話をする。

4.サタンの誘惑

(マタイ4:1~4)さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

これらの聖句は、悪魔が最初に主イエスを試そうとした時のものである。悪魔の発言内容はどのようなものであろうか。読み上げて欲しい。(「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。)悪魔の述べたことは至って簡潔であるが、この発言内容の趣旨には問題があるだろうか。(ある。)その問題は何であろうか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と述べているが、悪魔は、主イエスが神の子であることを心の中で知っていたであろうか。悪魔は、彼がキリストであることを知っていたであろうか。(知っていた。)それではなぜ「もし」と述べたのであろうか。(悪魔は神を試そうとしたからである。)無論、悪魔は神を試そうとしていたが、その目的は何であっただろうか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と述べている。悪魔は、心の中でイエス・キリストが神の子であることを知っており、それは極めて明瞭であったが、悪魔は主イエスに服従し、主イエスを礼拝したであろうか。(しなかった。)悪魔は何をしたかったのであろうか。悪魔はそのように述べて主イエスを怒らせ、罠にかけようと誘惑し、主イエスを騙し、自分の思うつぼにはめて行動させたいと考えていた。これがその言葉の意味ではなかっただろうか。悪魔は、心の中で、それが主イエス・キリストであることを明らかに知っていたにもかかわらず、そう述べたのであった。これはサタンの本性ではなかろうか。サタンの本性は、どのようなものであろうか。(悪賢く邪悪で神を全く敬わない。)サタンは、神を全く敬わない。この場面におけるサタンの邪悪な行動は、何であろうか。サタンは神を攻撃したかったのではなかろうか。サタンはそうした手段により神を攻撃したいと考えており、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と述べたが、これはサタンの邪悪な意図ではなかろうか。(その通りである。)実のところ、サタンは何をしようとしていたのであろうか。サタンの目的は極めて明瞭である。サタンはそうした手段により、主イエス・キリストの地位と身分を否定しようとしていた。悪魔は「神の子なら、これらの石をパンにしてみよ。それが出来ないならば、おまえは神の子ではない。神の子でないならこの働きをする必要はない。」と述べている。これがその言葉の意味であっただろうか。サタンはこの方法で神を攻撃し、神の業を崩し、破壊することを望んでいた。それはサタンの悪意であり、狡猾さである。サタンの悪意は、サタンの本性が自然に表出されたものである。サタンは主イエス・キリストが神の子であり、受肉した神自身であることを知っていたにもかかわらず、こうした行動を取らずにはいられず、神をつけ回し、攻撃を続け、甚大な労力を払って神の業を妨害し、破壊して神と敵対した。

ここで、サタンが述べた「これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という言葉を分析する。石をパンにすることには、何か意味があるだろうか。それには意味が無い。食べ物があるならば、それを食べればよい。なぜ石を食べ物に変える必要があるのだろうか。これに何か意味があるだろうか。(無い。)この時、主イエスは断食していたが、間違いなく彼は食べ物を持っていたであろう。主イエスは食べ物を持っていたであろうか。(持っておられた。)それならば、ここでサタンがそう述べたのは、不合理であることが分かる。このようなサタンの不忠と悪意から、サタンがどれだけ矛盾していて不条理であるかが確認できるであろう。サタンは多くの業を行う。サタンの性質が悪意に満ちていること、そしてサタンが神の業を破壊することが分かる。サタンは憎むべきものであり、腹立たしいものである。しかしその一方、あなたはサタンの言葉と行動の根底にある稚拙で不合理な本性に気付くであろうか。(気付く。)これはサタンの本性の明示である。サタンの本性はそうしたものであり、サタンはそのような行動を取る。人間にとって、この言葉はばかげており、滑稽である。しかし、サタンはまさにそうした言葉を述べることがある。サタンは無知であると言えるであろうか。ばかげているだろうか。サタンの邪悪さは随所に見られ、継続的に明示されている。そして主イエスは、サタンに何と答えられているだろうか。(「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。)この言葉には、何かしらの力があるだろうか。(ある。)神の言葉に力があるというのは、何故だろうか。(それらは真理だからである。)その通りである。その神の言葉は真理である。それでは、人間はパンだけで生きるだろうか。主イエスは40日40夜断食した。主は飢え死にしたであろうか。(しなかった。)主は飢え死にしなかった。それ故、サタンが主に来て、主に対してそのような事を述べ、石を食べ物に変えるよう駆り立てた。「石を食べ物に換えれば、食べ物が得られるのではないか。そうすれば断食を止めて空腹になるのを防げるのではないか。」しかし、主イエスは「人はパンだけで生きるものではなく」、すなわち、人間は物理的な肉にあって生きるが、人間にいのちを与え、肉にある身体に息吹を与えるのは、食べ物ではなく、神が述べた言葉である、と答えた。一方で、人間はこの言葉を真理であるとみなす。この言葉は、人間に信仰を与え、神を頼れること、神が真理であることを実感させる。もう一方で、この言葉の実践的側面はあるだろうか。(ある。)それは何故だろうか。なぜなら、主イエスは40日40夜断食してなお、そこに立ち、生きていたからである。これは幻影であろうか。ここでの要点は、主は40日40夜、何も食べなかった。主はそれでも生きていた。これは、主の言葉の根底にある強力な根拠である。この言葉は簡潔であるが、主イエスに関する限り、主の言葉は、誰かから教えられたもの、あるいは単にサタンに言われた言葉が原因で主が考えられた言葉であっただろうか。それを考えて欲しい。神は真理である。神はいのちである。神の真理といのちは、後で追加されたものだろうか。それは経験から生まれたものであろうか。(そうではない。)それは神の本質的なものであり、真理といのちは神の本質の中に存在するものである。神に何があろうと、神が明示するのは、真理である。その内容の長短に関係なく、この真理、この言葉が、人間を生かし、いのちを与え、人間がその中に真理を見出し、人生の旅路の明瞭さを見出し、神を信仰することを可能とするのである。これが、神によるこの言葉の使用の源である。この源は良いものであるが、この良いものは聖なるものであろうか。(聖なるものである。)サタンの言葉は、サタンの本性に由来する。サタンはその邪悪な悪意に満ちた本性を、随所で継続的に明示する。それでは、サタンはこうした明示を自然に行うであろうか。(自然に行う。)誰かがそれを扇動するであろうか。誰かがそれを支援するであろうか。誰かがそれを強要するであろうか。(しない。)それは全てサタン自らが行うものである。これがサタンの邪悪な本性である。サタンは、神の業のすべてについて、その実施方法を問わず、ぴったりと神をつけ回している。サタンの言葉や行動の本質や真の特徴は、サタンの本質すなわち邪悪で悪意に満ちた本質である。それでは、その後サタンは何を述べたであろうか。続きを読もう。

(マタイ4:5~6)それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。

まず、サタンの言葉について話をしよう。サタンは「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。」と言い、次に聖句を引用して「神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう」と述べた。このサタンの言葉を聞いて、あなたはどのように感じるだろうか。この言葉は極めて幼稚ではなかろうか。この言葉は幼稚で、非常識で、忌まわしい。わたしがこう述べるのは何故であろうか。サタンは常に愚かなものごとを行い、自らを極めて賢いと考え、聖句を頻繁に引用し、さらには神の言葉までをも引用して、神を攻撃し、試そうとする。サタンのこうした行為の目的は、神の業の計画を破壊することである。しかし、あなたはサタンの言葉について何か気付くことはあるだろうか。(サタンの言葉には悪巧みがある。)サタンは常に誘惑する者であり、率直な発言をせず、試すこと、惑わすこと、誘惑することなどにより遠回しな口調で話す。サタンは神と人間の両方を等しく試す。サタンは、神と人間の両方ともが無知で、愚かで、物事をありのままで明確に見分けることが出来ないと考える。サタンは神も人間も、サタンの本質を見抜くことができず、サタンの狡猾さと邪悪な意図を見抜くことができないと考えている。これがサタンの愚かさの原因ではなかろうか。(その通りである。)さらに、サタンは公然と聖句を引用するが、サタンは聖句を引用することで、自らの信憑性が得られ、あなたが誤りを指摘したり、騙されるのを回避したりできなくなると考えている。サタンが不合理であり、稚拙な点は、こうした部分ではなかろうか。(その通りである。)これは、誰かが福音を伝え、神の証をした時に、信者以外の物がこうしたサタンの発言に類似したことを言うのと同様ではなかろうか。人々がこれと同様の発言をするのを聞いたことがあるだろうか。(ある。)こうした発言を聞いたとき、あなたは嫌悪を感じないだろうか。(感じる。)嫌悪感を覚えたとき、あなたは不快感や反感も覚えないであろうか。(覚える。)あなたがそのような感情を抱く時、あなたはサタンと、サタンが人間に付け入ろうとする腐敗した性質が邪悪であると認識できるであろうか。あなたは、心の中で「神はそのような話し方をされることは決して無い。サタンの言葉は攻撃し、誘惑するものであり、不合理であり、滑稽であり、稚拙であり、不快なものである。しかし、神の言葉や業において、神がこうした方法を採られることは決して無く、今までそのようなことは一度もなかった。」と気付いたことはあるだろうか。無論、こうした状況において人間は僅かに感じるのみであり、神の聖さに気付くことはない。人間は神の言葉が真理であると認めることしかできないが、真理そのものが聖さであることを知らない。あなたがたの現在の背丈では、単に「神の言葉は、全て真理であり、人間にとって有益であるから、受け容れるべきである」と感じるのみである。それを受け容れられるかどうかを問わず、あなたがたは、神の言葉は真理である、神は真理であると例外なく述べるが、真理自体が聖さであり、神が聖なる存在であることを知らない。そうしたわけで、イエスはサタンの言葉に、どう答えたであろうか。

(マタイ4:7)イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

このイエスの言葉には真理があるであろうか。(ある。)この言葉には真理がある。この言葉は、表面的には、人間が従うべき命令であり、極めて簡明なもののように思われるが、この言葉は人間とサタンの両方が頻繁に破ってきた命令である。そこで、主イエスはサタンに対して「主なるあなたの神を試みてはならない」と言った。なぜなら、それはサタンが最大限の努力をもって頻繁に行うことであり、サタンは全く恥じることなくそれを行っているとも言えるからである。心の中で神を畏れず、敬わないことは、サタンの根本的な性質である。したがって、サタンが神の近くで神を見ることが出来た時、サタンは神を試さずにはいられなかった。それゆえに、主イエスはサタンに「主なるあなたの神を試みてはならない」と言った。これは、神が度々サタンに言った言葉である。現在においても、この言葉を用いるのは適切ではなかろうか。(適切である。)それは何故か。(人間も頻繁に神を試そうとするからである。)人間は頻繁に神を試そうとするが、それは何故であろうか。それは、人間がサタンの堕落した性質で満ちているからであろうか。(その通りである。)それでは、前述したサタンの言葉は、人間がしばしば言うことであろうか。(その通りである。)どのような状況で言うであろうか。人間は、時や場所を問わず、こうした言葉を述べ、自然に明示してきた、と言えるであろう。このことにより、人間の性質が、まさにサタンの腐敗した性質と同じであることが証明される。主イエスは、簡明で、真理を示す、人間に必要な言葉を述べた。しかし、この場合に主イエスはサタンと言い争っているだろうか。主のサタンに対する言葉には、何かしら対抗的な部分があるだろうか。(無い。)主は、その心において、サタンの誘惑をどのように考えただろうか。主は嫌悪し、反感を覚えただろうか。(その通りである。)主イエスは反感と嫌悪を覚えたが、サタンと争うことはなく、ましてや遠大な原則について何ら述べることは無かった。そうではないか。(その通りである。)それは何故であろうか。(主イエスはサタンを認めることを望まなかったからである。)主がサタンを認めることを望まなかったのは、何故であろうか。(サタンは常にそのような存在であり、それは変わり得ないからである。)サタンは不条理であると言えるであろうか。(そう言える。)サタンは神が真理であると認識できるのだろうか。サタンは決して神が真理であると認識したり認めたりすることはない。それがサタンの本性である。さらに、サタンには、そのほかにも人間が反感を抱く本性があるが、それは何であろうか。主イエスを試そうとした時、サタンは心の中で何を信じていたであろうか。サタンは、神を試し、たとえそれに失敗するとしても、神を試した。サタンは、たとえ罰を受けるとしても、神を試した。神を試しても何ら良い結果が得られないにもかかわらず、サタンは神を試し、しつこく最後まで神に対抗した。こうした本性は、どのようなものであろうか。それは邪悪ではないだろうか。(その通りである。)神について述べられる時に激怒する者は、神を見たことがあるであろうか。神について述べられる時に怒る者は、神を知っているであろうか。その者は神を知らず、神を信仰せず、神はその者に語ったことが無い。神はその者の邪魔をしたことがないのに、何故その者は怒っているのであろうか。その者は邪悪であると言えるであろうか。(言える。)この者は、本性が邪悪な者であろうか。娯楽、食事、有名人、美しい人々など、世の中で何が流行しているとしても、その者はそうした流行に煩わされることは無いが、「神」という言葉がひとたび述べられると、途端にその者は立腹する。これは邪悪な本性の例ではなかろうか。こうしたことにより、人間の邪悪な本性が十分に証明される。それでは、あなたがたについて尋ねるが、真理が述べられた時、神の人間に対する試練が行われた時、あるいは神の審判の言葉が人間に対して述べられた時、あなたがたが不快感や拒絶感を覚え、それを聞きたくないと思ったことがあるであろうか。あなたがたの心は、その真理とはどのようなものだろうか、人々は皆、神が真理であると言ったではないか、それは真理では無く、神の人間に対する忠告の言葉に過ぎないことは明らかだ、などと考えるであろう。さらには、嫌悪感を覚えて、これは日常的に起こることだ、神の試練も神の裁き同様、日常的に述べられている、何時それらが終わる時が来るのか、何時になったら良い終着点を得ることが出来るのだろう、などと思う者もいる。こうした不合理な怒りの原因は不明である。こうした本性は、どのようなものであろうか。(邪悪な本性である。)その本性はサタンの邪悪な本性により助長される。サタンの邪悪な本性と人間の腐敗した性質について、神が人間に異議を唱えたり言い争ったりすることは一切無く、人間が無知な行いをしても、騒ぎ立てることは一切無い。あなたがたは、神が人間と同様の見方をしたり、神が人間の見方、知識、科学、哲学、想像により物事に対処したりするのを見受けることは無いであろう。神の業や神が明示する物事は、すべてそうした人間の物事ではなく、真理と関連している。つまり、神が述べた言葉や行った業は、すべて真理に関連する。この真理は事実無根の幻想ではなく、この真理と言葉は、神の本質といのちにより表出される。こうした言葉や神が行った業の本質は、真理であり、したがって神の本質は聖なるものであると言える。換言すると、神の言葉や業は、すべて人間に生命力と光をもたらし、人間が良いものとそうした良い物の現実性を理解することを可能とし、人類が正しい道を進むように、人類を光の道へと導く。こうした事柄は、神の本質と神の聖なる本質により判断される。あなたがたはそのことを理解したであろう。引き続き聖句を読む。

(マタイ4:8~11)次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

悪魔であるサタンは、それまで2度の謀略に失敗したにもかかわらず、もう一度試そうとする。サタンは世界の全ての国々とその繁栄ぶりを主イエスに見せた上で、悪魔を拝むよう求めた。こうした状況から、悪魔の真の特徴について、何が分かるであろうか。悪魔であるサタンは完全に無恥ではなかろうか。(無恥である。)サタンはどれほどまで無恥であろうか。すべて神により造られたものであるにもかかわらず、逆にサタンはそれを神に見せて「これらの国々の繁栄を見よ。私を拝むならば、これをみんな与えよう。」と述べた。これは立場が逆ではなかろうか。サタンは無恥ではないだろうか。神は全てを造ったが、それは神の享楽のためであっただろうか。神は人間に全てを与えたが、サタンはそれを全て奪った上で、「私を拝め。私を拝むならば、これをみんな与えよう。」と述べた。これが、サタンの醜悪な顔である。サタンは完全に無恥であろう、そうではないか。サタンは「恥」という言葉の意味すら知らず、これはサタンの邪悪さの一例にすぎない。サタンは「恥」が何であるかすら知らない。サタンは神が万物を造り、それを管理し、支配していることを明らかに知っている。すべての物事が神のものであり、人間のものではなく、ましてやサタンのものではないが、それにもかかわらず悪魔であるサタンは、厚かましくも、そのすべてを神に与えようと述べた。ここでも、サタンは不合理で無恥な業を行っていないだろうか。神は一層サタンを忌み嫌うであろう、そうではないか。しかし、サタンが何をしようとしても、主イエスはそれに屈することはなかったのではなかろうか。(なかった。)主イエスは何と言ったであろうか。(「主なるあなたの神を拝し」。)この言葉には実際的な意味があるだろうか。(ある。)その実際的な意味とは、どのようなものであろうか。サタンの発言からは、サタンの邪悪さと無恥さが分かる。したがって、人間がサタンを拝んだとしたら、どのような結果となるであろうか。全ての国々の富と栄光を与えられるであろうか。(与えられないであろう。)それでは、何を与えられるであろうか。人間はサタンと同様に無恥で滑稽な存在になるのではないか。(そうなるであろう。)そうした人間は、サタン同然となるであろう。したがって、主イエスは、人間ひとりひとりにとって重要な言葉「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と述べた。この言葉は、主すなわち神自身ではない、悪魔であるサタンを拝んだとしたら、サタンと同じ不浄の中を転げ回ることとなると述べている。サタンを拝むと、人間の無恥と邪悪はサタンと同じものとなり、サタン同様に神を試し、攻撃するようになるであろう。その結果、人間はどうなるであろうか。その人間は神に嫌悪され、打たれ、破壊されるのだろう。そうではないか。サタンが主イエスを何回か試し、失敗した後、サタンは再度試したであろうか。サタンは再度試さずにその場を去った。それは何を証明するであろうか。それはサタンの邪悪な本性、悪意、ばかばかしさと不条理さは、神の前で述べる価値が無いということを証明している。なぜなら、主イエスは僅か3つの文によりサタンを敗北させたからであり、その後サタンは顔を見せるのも憚られるほど恥らい、慌ててしっぽを巻き逃げ去り、二度と主を試さなかったからである。主イエスがこのサタンの誘惑を打ち破った後、主が必要な業を実施し、任務に取りかかるのが容易になった。この場面における主イエスのあらゆる言葉と業には、現在に当てはめた場合、人間全員にとって実際的な意義があるであろうか。(ある。)その実際的な意味とは、どのようなものであろうか。サタンを打ち破るのは容易なことであろうか。(容易ではない。)それでは、その意義は何であろうか。サタンの邪悪な本性に関し、人間は明瞭に理解する必要があるであろうか。サタンの誘惑に関し、人間は正確に理解する必要があるであろうか。(ある。)あなたが自分の人生でサタンの誘惑を経験し、サタンの邪悪な本性を見抜けるとしたら、あなたはそれを打ち破ることができるであろうか。サタンのばからしさと不条理さを知っているとしたら、それでもサタンと共に神を攻撃するであろうか。(しないだろう。)サタンの悪意と無恥さが、自分自身を通して明示されているのを理解し、明確に認識し、知っているとしたら、あなたはそれでもこのように神を攻撃し、試すであろうか。(そのようなことはしないだろう。)あなたはどうするであろうか。(サタンに反抗してサタンを捨てる。)それは容易なことであろうか。(容易ではない。)それは容易なことではなく、そのために人間は頻繁に祈り、神の前に出て、自分自身について常に検討する必要がある。人間は神の訓練と裁き、刑罰に従う必要があり、そうすることによって始めて、人間はサタンの領域と支配から次第に解放されることができる。

サタンが述べた言葉から、サタンの本質を構成する物事を概括することができる。まず、サタンの本質は概して邪悪であり、それは神の聖さと対照を成す。わたしがサタンの本質が邪悪であると言う理由は何であろうか。それを知るためにはサタンの業の結果を検討する必要がある。サタンは人間を堕落させ、支配し、人間はサタンの腐敗した性質に従って行動し、サタンにより腐敗された世界で、腐敗した人々と共に生活する。多くの人々が無意識のうちにサタンにとりつかれ、吸収されているので、人間にはサタンの邪悪な本性がある。サタンの業と言葉の全てから、その傲慢さを知ることができ、狡猾さと邪悪さが理解できる。サタンの傲慢さは、主としてどのように示されるであろうか。サタンは常に神の地位を奪うことを望んでいるであろうか。サタンは、人々がサタンに従い、サタンを支持し、サタンを崇拝するよう、常に神の業と地位を崩壊させて自らがその座に就くことを望んでいるが、それがサタンの傲慢な本性である。しかし、サタンが人々を腐敗させる時、サタンは陰険で背信的な方法を採る。サタンが人間に業を行う場合、サタンは神を拒絶し、神に反逆する方法を直接的に人間に対して伝えない。サタンが神を試すとき、サタンは公然と「私はあなたを試し、攻撃する」と述べることは無いが、サタンはどのような方法を採るであろうか。(誘惑である。)サタンは誘惑し、試し、攻撃し、罠を仕掛け、さらには聖句を引用する。サタンは様々な言動と行動により邪悪な動機を実現させようとする。そうした言動や行動の後、人間に現れる事柄から分かることは何であろうか。人間は傲慢ではなかろうか。人間は数千年にわたってサタンの腐敗に苛まれてきたので、人間は傲慢になり、極めて高慢になり、狡猾で、邪悪で不合理になった、そうではないか。こうした物事は、全てサタンの本性によりもたらされたものである。サタンの本性は邪悪であるので、サタンは人間にこの邪悪な本性を与え、腐敗した邪悪な性質をもたらした。したがって、人間は腐敗した悪魔のような性質のなかで生活し、サタン同様に人間も神に反抗し、神を攻撃し、神を試し、その結果として神を拝まなくなり、心から神を敬うことが無くなった。そうではないだろうか。

神の聖さに関しては、親しみ深い主題ではあるが、一部の人々にとっては多少抽象的となり、内容が多少深すぎるかも知れない。これまでは人々が神の聖さを取り扱うことが滅多に無かったので、人々はその聖さを理解できない。しかし、あなたがたが神の聖さを理解するのをわたしが助けるので、心配は無用である。これについて理解するのはあなたがたにとって多少困難であることは承知しているので、最初に話しておきたい。ある人物のことを知りたいと思った場合は、その者の行動や行動の結果を観察すれば、その人物の本質を理解できるであろう。したがって、ここではその観点から神の聖さを伝えることにする。サタンの本質は邪悪と悪意であり、現在まで、サタンの人間に対する行動は、人間を限りなく腐敗させることであったと述べた。サタンは邪悪であるので、サタンが腐敗させる人間もまた邪悪であろう。「サタンは邪悪であり、サタンが腐敗させる人間が聖なる存在ではないだろうか」と言う者はいるであろうか。それは冗談であることに相違ないであろう。そもそも、そのようなことがあり得るのだろうか。(有り得ない。)したがって、そのように考えてはならない。ここでは、サタンは邪悪であり、それが本質であり事実であり、それは空虚な話ではない、という側面から話をする。ここではサタンを中傷しようとしているのではなく、単に真理と現実と、それに関連する事実について話をする。こうすることにより一部の人々や一部のグループの人々が傷付く可能性もあるが、こうすることに悪意は無い。あなたがたは、今この話を聞くと多少不快になるかも知れないが、近い将来、あなたがたがこのことに気づいた時、自己嫌悪に陥り、本日話したことが極めて有用であり、貴重であると感じるであろう。

サタンの本質は邪悪であるので、サタンの業の結果は邪悪とならざるを得ず、あるいはその結果は少なくともサタンの邪悪さと関連したものである、と言えるであろうか。(そう言えるであろう。)それでは、サタンはどのようにして人間を腐敗させるであろうか。まず、視認することや感じることが出来るこの世界においてサタンが仕組んだ悪について取り上げて検討するが、あなたがたは、それについて以前に考えたことがあるであろうか。それほど深く考えたことは無いかもしれないので、サタンがどのように人間を腐敗させるかについて理解できるように、主要な点をいくつか挙げる。進化論という理論があるが、それについては皆知っているであろう。この進化論と唯物論は、人間により研究されている知識の領域であろうか。(そうである。)サタンはまず、知識により人間を腐敗させ、科学によって知識や科学、神秘的な事柄、あるいは人間が探求したい事柄に対する人間の関心を高める。すなわち、サタンは科学的知識を用いて人間を腐敗させる。人間を腐敗させるため、サタンがその次に使用するのは、伝統文化と迷信であり、その次に社会動向を利用する。これらの物事は、すべて人間が日常生活において接するものであり、人間が見たり、聞いたり、触れたり、経験したりする身近な物事と関連している。こうした物事はあらゆる者の周囲にあり、人間はこうした物事から脱することが出来ない、抜け出すことができないと言えるであろう。人間はこうした物事により影響され、感染され、支配され、束縛されることを避けられず、人間にはこうした物事を排除する力が全く無い。

まず、知識について話をする。知識は、誰しもが肯定的なものと考えるのではないだろうか。少なくとも、人々は「知識」という言葉の含意は、否定的であるより、むしろ肯定的であると考えている。それでは、ここでサタンは最初に知識で人間を腐敗させるという議論をしているのは、何故だろうか。進化論は知識の一側面ではなかろうか。ニュートンの科学的法則は知識の一部ではなかろうか。地球の引力は知識の一部であろう。(そうである。)それでは、サタンが人間を腐敗させるために使用する物事に、なぜ知識が含まれているのであろうか。あなたがたは、どう考えるのか。知識には真理がかけらほどは含まれているだろうか。(含まれていない。)それでは、知識の本質は何であろうか。(知識は真理に反する。)人間の知識は、何に基づいて習得されるであろうか。それは進化論に基づいているであろうか。人間が追究する知識は、総じて無神論に基づいているのではなかろうか。(そうである。)それでは、そうした知識には、神と何らかの関連性があるだろうか。知識は神への礼拝と関連しているだろうか。知識は真理と関連しているだろうか。(関連していない。)サタンは、どのように知識を用いて人間を腐敗させるのであろうか。たった今、こうした知識のうち、神への礼拝や真理と関連するものは一切無いと述べた。一部の者は、「知識は真理と無関係かもしれないが、人間を腐敗させることはない。」などと考える。あなたがたは、それをどう思うか。あなたは、知識により、人間の幸福は自分自身の手で造った物事に依存すると悟らされたのか。人間の運命は自分自身の掌中にあると、知識により悟らされたことはあるだろうか。(ある。)こうした話は、何であろうか。(戯言である。)そのとおり。それは戯言である。知識に関する話は複雑である。簡潔に言えば、ある分野の知識は、知識以上のものでは無い、と言えるであろう。それは、無神論に基づき、神が万物を創造したという理解なしに学んだものである。人々がこの種の知識を習得するとき、人間は神が万物を支配しており、万物の管理しているということを理解しない。人間は、そうしたことを理解する代わりに、調査研究と探索を延々と続け、その分野の知識について科学的な結論を得ようとするのみである。しかし、人間が神を信じずに調査研究を続けた場合、人間は決して真の答えを見つけられないであろう。知識からは、生活の糧、職業ないし収入が与えられ、飢えることは無いというだけで、神を知り、神を信じ、神に従う上では、決して役立つことは無く、知識は人間を悪から遠ざけることはない。知識を学べば学ぶほど、神に反抗したい、神を調査したい、神を試したい、神に逆らいたいという欲望が強くなる。そうであれば、知識により人間が教えられることは、何であろうか。それは、すべてサタンの哲学である。腐敗した人間に見られる、サタンの哲学と生存の規則は、真理と何らかの関係があるだろうか。(無い。)それらは真理とは一切無関係であり、実は真理とは正反対である。人々は頻繁に「人生は動きである」というが、それはどのような話であろうか。(戯言である。)また人間は「人間は鉄であり、米は鋼である。食事を抜くと空腹になる。」というが、それはどのような話であろうか。(サタンの戯言である。)それはさらに劣悪な邪論であり、それを聞くと嫌悪を感じる。知識とは、おそらく皆知っているものであろう。サタンは、いわゆる人間の知識の中に、サタンの人生哲学やその考え方を、かなり大量に浸透させている。そうすることで、サタンは、人間がサタンの思想や哲学、観点を借りて、人間が神の存在や神による万物支配や人間の運命の支配を否定するようにしている。したがって、人間の研究が進展し知識を得た時に、サタンが人間の精神に加えた観点や概念、思想などが原因となって、神の存在が曖昧なものとなっているように感じ、さらには神が存在しないと感じることさえある。サタンがこうした思想を人間の精神に加えるにしたがって、人間は腐敗してゆくのではなかろうか。(その通りである。)現在、人間は何を生活の基盤としているであろうか。人間は本当にこうした知識に依存しているであろうか、というと、そのようなことは無く、人間は、こうした知識に潜むサタンの思想、観点、哲学を生活の基盤としている。これが、サタンによる人間の腐敗の中核が発生する部分であり、サタンの目的であり、サタンが人間を腐敗させる方法である。

A: サタンは知識を用いて人間を腐敗させる方法

まず、この主題の最も表層的な側面について話をする。学校で中国語の授業を受けている時、中国語と作文には人間を腐敗させる能力があるか、というと、そのようなことは無い。言葉が人間を腐敗させることが出来るであろうか。(出来ない。)言葉は人間を腐敗させない。言葉は人間の会話を実現し、人間が神と交わる時に用いる道具である。さらに、言語や言葉は、現在神が人間と交わる時の手段でもあり、必要なものである。1と1の和は2である、というのも知識である。2と2の積は4である、というのも知識である。しかしそうした知識は人間を腐敗させることが出来るであろうか。これは常識であり、法則であるから、人間を腐敗させることが出来ない。それでは、どのような知識が人間を腐敗させるであろうか。それは、サタンの観点と思想が混入されている知識であり、サタンはこうした観点と思想を、知識により浸透させようとする。たとえば、随筆に書かれた言葉に何かしら問題があるだろうか。(無い。)それでは、問題はどこにあるのだろうか。随筆を執筆した時の筆者の観点や趣旨、思想の内容は、霊的なものであり、人間を腐敗させることができる。たとえば、テレビ番組を見ている場合、その中であなたの意見を変える可能性のあるのは、どのような物事であろうか。出演者の言葉や、言葉そのものが人間を腐敗させることがあるだろうか。(無い。)人間を腐敗させるのは、どのような物事であろうか。それは、番組の制作責任者の意見を示す、その番組の中核的な思想と内容であり、そうした意見に含まれる情報が人間の心と精神を変える場合がある。そうではないだろうか。(その通りである。)サタンが知識を利用して人間を堕落させるとわたしが言う意味が、あなたがたに分かるだろうか。(分かる。)あなたがたは誤解することはないだろう。それでは、小説や随筆を読んだ時、あなたは、その随筆で表されている思想が人類を腐敗させるか、人類に役立つかを判断することが出来るであろうか。(多少できる。)それはゆっくりと研究し、経験する必要のあることであり、たやすく即時に理解できるものでは無い。たとえば、ある分野の知識を調査研究している際に、その知識の建設的な側面は、その分野の常識や、人間が避けるべき事柄を理解する上で役立つ。たとえば、「電気」は、ある分野の知識である。人間が電気で感電することを知らなかったとしたら、それは無知であろう。しかし一旦この分野の知識を理解したならば、電気の流れている物に触れる時は注意するであろうし、電気の使い方を知るであろう。こうした事柄は、どちらも建設的な物事である。知識がどのように人間を腐敗させるかに関して話していることを、あなたがたは正確に理解しているであろうか。(理解している。)理解しているということであれば、この件に関してはこれ以上話を続けない。なぜなら、この世界で研究されている知識の種類は多数あるので、あなたがたが時間をかけて自分自身で区別しなければならないからである。

B: サタンは科学を用いて人間を腐敗させる方法

科学とは何であろうか。科学は、あらゆる者の心において高い地位にあり、奥の深いものであるとみなされているのではなかろうか。(その通りである。)科学と言うと、人々は「科学は一般人に理解できるものではなく、特定の研究者や専門家のみが取り扱うことのできる事項だ。科学は我々一般人と無関係である。」と感じるのではなかろうか。しかし、科学は一般人と関係あるであろうか。(ある。)サタンは、人間を腐敗させるためにどう科学を使うのであろうか。ここでは、人間が実生活の中で頻繁に遭遇する物事以外については、話をしない。あなたがたは遺伝子について聞いたことがあるであろう。(ある。)あなたがたは皆、この言葉に馴染みがあるであろう。遺伝子は科学により発見されたものであろうか。遺伝子は、正確に言うと人間にとって何を意味するものであろうか。遺伝子は、人体が神秘的なものであると人々に感じさせるのではないか。遺伝子の話を聞くと、もっと知りたい、詳しく知りたいと思う人々が、特に好奇心の強い人々の中に、いるのではないか。こうした好奇心旺盛な人々は、この話題に注力し、暇さえあれば書籍やインターネットで情報を検索し、一層詳しく知ろうとするであろう。科学とは、何であろうか。端的に言うと、科学とは人間が関心を持つ物事、未知の物事、神により伝えられていない物事に関する思想と理論、人間が調査したい神秘的な事柄に関する思想と理論である。科学の範囲について、あなたはどう考えているであろうか。科学にはあらゆる物事が含まれると言うかもしれないが、人間はどのようにして科学的な作業を行うであろうか。調査することで行うのか。科学では、そうした物事の詳細や法則を調査し、あやふやな理論を掲げ、そうした理論について、皆「この科学者達は実に素晴らしい。実に多くの知見があるので、こうした物事が理解できるのだ。」と考える。人間は、こうした科学者を大いに称賛するであろう。科学研究を行う人々は、どのような考えを持っているであろうか。科学研究者は、宇宙や、関心のある分野の謎に包まれた事柄を研究したがるのではないか。こうした研究の最終的な成果は何であろうか。科学では、推量により結論を出す者や、人間の経験に依存して結論を出す者がおり、また別の科学分野では経験や歴史的な考察や背景から結論を出す者がいる。そうではないだろうか。(その通りである。)それでは、科学は人間に対してどのように作用するであろうか。科学の作用は、人間が物質世界の物事を理解できるようにし、人間の好奇心を満たすに過ぎない。神による万物支配の法則は、科学によって人間が理解することはできない。人間は科学から結論を得ようとするようだが、その結論は難解であり、一時的な満足をもたらすに過ぎない。この一時的満足には、単に人間の心を物質世界に制限する作用しか無い。人間は科学から既に回答を得ていると感じるので、問題が発生した時、それを証明し、認める上で、科学的見解を固く信じる。人間の精神は科学に取り憑かれ、魅了されており、神を知り、崇拝する精神、神が万物を創造したことを信じ、神に答えを求める必要があることを信じようとする精神を失っている。これは事実ではなかろうか。ある者が科学を一層信じるようになると、その者は一層不合理となり、あらゆる物事に科学的解決策がある、研究であらゆる物事を解決できると信じるようになる。そうした者は神を求めず、神が存在することを信じない。長年にわたり神に付き従ってきた者でさえも、思いつきでバクテリアの研究をしたり、情報を検索して答えを求めたりする。そうした者は真理の観点から問題を考えることが無く、殆どの場合、そうした者は科学的な観点や知識、結論に依存して問題を解決することを望むが、神を頼り、求めることは無い。こうした者の心には神が存在するであろうか。(存在しない。)さらには、科学研究と同じ方法で神を研究したがる者もいる。たとえば、大洪水の後に箱舟が残された場所へ行く宗教専門家が多数いる。彼らは箱舟を見たが、箱舟を見ても、神の存在を理解していない。彼らは物語と歴史しか信じず、それが、物質世界における宗教専門家による調査研究の結果である。物質的な物事を調査した場合、それが微生物学であれ、天文学であれ、地理学であれ、神が存在する、あるいは神が万物を支配しているという結論には、決して到達することがない。そうではないだろうか。(その通りである。)それでは、科学は人間に対してどのように作用するであろうか。科学は、人間を神から遠ざけるのではなかろうか。科学により神を研究することは可能となっているのではないだろうか。科学により神の存在について人々が一層疑念を抱くようにならないだろうか。(なる。)それでは、サタンはどのようにして科学を用いて人間を腐敗させようとするのであろうか。サタンは科学的な結論を使用して人間を欺き、麻痺させようとしているのではないか。サタンは、人々が神の存在を求めたり信じたりしないように、曖昧な回答により人々の心を捉えようとするので、人々は神を疑い、否定し、神から離れてゆく。このような理由で、科学はサタンが人間を腐敗させる方法のひとつであると言うのである。

C: サタンは伝統文化を用いて人間を腐敗させる方法

伝統文化の一部であるとみなされる物事は、多数あるだろうか。(ある。)伝統文化とは何であろうか。(祖先から伝承されたものである。)祖先から伝承されたものというのは、その一側面である。家族、民族集団、さらには人類も、大昔から生活様式や、風習、ことわざ、規則を伝承し、それらは人間の思想に浸透している。人間は、これらの物事をどのように解釈するであろうか。人間はこれらの物事を生活と不可分のものと考える。人間はこれらの物事を守るべき規則そしていのちとみなし、これらの物事が自分達の祖先から伝承されたものであることを理由として、それを変えたり破棄したりするのを常に嫌う。伝統文化には、孔子や孟子から伝承されたものや、中国の道教や儒教の教えによりひとりひとりに深く浸透しているものなど、その他の側面もある。そうではないだろうか。(そうである。)伝統文化には、何が含まれるであろうか。伝統文化には、祝祭日も含まれるであろうか。たとえば年始から順番に、春節、元宵節、清明節、龍舟節、メーデー、子どもの日、中秋節、国慶節などがある。さらに、その他の祝祭日を祝う家庭や、特定の年齢で長寿祝いをする家庭、子どもが生後1か月や100日となった時に祝う家庭もある。これらは全て伝統的祝祭日である。これらの祝祭日の背景には伝統文化があるのではないだろうか。伝統文化の中核は何であろうか。その中核は、神を礼拝することと関連しているであろうか。その中核は、人間に真理を実践するよう伝えることに関連しているであろうか。(関連していない。)神に対して犠牲を捧げ、神の祭壇へ行き言葉を受ける祝祭日はあるだろうか。そのような祝祭日があるだろうか。(無い。)それらの祝祭日には、人間は何をするだろうか。(サタンを拝む。飲み食いや娯楽をする。)現代において、祝祭日は飲食や娯楽の機会とみなされている。それでは、伝統文化の起源は何であろうか。伝統文化は誰に由来するだろうか。(サタンである。)サタンに由来する。こうした伝統文化の背景では、サタンが人間に何かを浸透させているが、それは何であろうか。人間が祖先を忘れないようにすることも、そのひとつであろうか。たとえば、清明節には、人々が墓を掃除して祖先に捧げものをする。それゆえ人間は祖先を忘れないであろう。またサタンは、龍舟節などで、人間が愛国心を忘れないようにする。中秋節についてはどうであろうか。(家族で集まる。)家族で集まることの背景は何であろうか。家族で集まる理由は、何であろうか。(家族と感情を大切にすることである。)交流して気持ちをつなげることであろう。無論、旧正月や元宵節の祝賀については、背景となる理由に様々な説明方法がある。背景をどのように説明するかを問わず、それはすべてサタンがその哲学と思想を人間に浸透させる手段であり、それによって人間が神を離れ、神の存在を忘れ、祖先やサタンに捧げものをするようにさせたり、単に肉の欲のために飲み食いと娯楽を行うようにさせたりするのである。こうした祝祭日を祝うたびに、サタンの思想と考え方が人間の精神に深く植え付けられ、人間はそれに気付くことすらない。人々が中高年に達する頃には、こうしたサタンの思想や観点などが、既に心の中に深く根付いている。さらに、人々はこうした考え方を、善悪を問わず、無条件に次世代へと極力伝えようとする。そうではないだろうか。(その通りである。)それでは、伝統文化やこうした祝祭日は、どのようにして人間を腐敗させるであろうか。(人間はそうした伝統の規則による制約を受け、神を求める時間や力がなくなってしまう。)それはひとつの側面である。たとえば、人々は皆、旧正月を祝うが、あなたがそれを祝えなかったとしたら、悲しくならないだろうか。あなたは「なんということだ、旧正月を祝えなかった。祝うことができず、酷い旧正月になってしまった。この1年が悪い年になるのではないか。」と感じないであろうか。あなたは不安になるのではなかろうか。(不安になる。)そして、あなたは少し恐れるのではないか。さらには、長年にわたり祖先に捧げものをせずにいて、突然他界した者が金銭をねだる夢を見る人々もいるが、こうした人々は何を感じているであろうか。「他界しているのに、払うお金が必要とは、何と悲しいことだろう。お札を何枚か焼かないといけないだろう。お札を焼かなかったら、生きている我々に災いがあるだろう。いつ災いがあるかは誰にも分からない。」こうした人々は、こうした一抹の不安を常に抱え、心配している。それでは、こうした懸念をもたらすのは、誰であろうか。(サタンである。)サタンがもたらす。これは、サタンが人間を腐敗させる方法のひとつではないだろうか。サタンは様々な方法と言い訳により人間を支配し、脅迫し、束縛するので、人間は眩惑してサタンに気を許し、従ってしまう。サタンはこうして人間を腐敗させる。人々が弱くなっているとき、あるいは状況を完全に把握していない時、不注意に間抜けなことをしてしまうこと、すなわち、気付かぬうちにサタンに支配され、無意識に何かしていて、自分が何をしているかも分からないことが往々にしてある。サタンが人間を腐敗させる方法は、それである。さらに、深く根ざしている文化的な伝統から離れることに難色を示し、そうした伝統をどうしても捨てられない人々も多数いる。人々が弱くなり、受け身になって、こうした祝祭日を祝うことを求め、サタンに会ってサタンを満足させ、よって自らも心の安らぎを得ることができるのは、特にこうした場合である。これが現状ではないだろうか。(その通りである。)こうした文化的伝統の背景は何であろうか。その背後で、サタンの黒い手が操っているのではなかろうか。サタンの邪悪な本性は、物事を操り、支配しているだろうか。こうした物事は、全てサタンが支配しているだろうか。(支配している。)人間が伝統文化の中で生活し、こうした伝統的な祝祭日を祝う時、それは人間がサタンにより騙され、腐敗させられる環境であると言えるであろうか。こうした人々は、サタンにより腐敗させられて満足しているのではないだろうか。それが実状ではないだろうか。(その通りである。)これについては、あなたがた全員が認めるであろう。そしてこれは、あなたがた全員が知っていることである。

D: サタンは迷信を用いて人間を腐敗させる方法

あなたがたは皆、「迷信」という言葉に馴染みがあるであろう。迷信において人間が頻繁に遭遇するものは、何であろうか。(邪神である。)迷信には、伝統文化と重複する類似点があるが、本日はその点についてではなく、占い、易断、焼香、そして仏陀の崇拝という、最も一般的に見受けられる物事について話をする。占いをする者もいれば、仏陀を崇拝して焼香する者もいる。その一方で自分の運勢について易断を受ける者、人相占いを受ける者もいる。あなたがたのうち、易断や人相占いを受けたことのある者は、何人いるだろうか。これは大部分の人々が関心を持っている事であろう。(その通りである。)それは何故であろうか。占いや易断には、人間にとってどのような利点があるであろうか。人間は、占いや易断から、どのような満足を得るであろうか。(好奇心の満足である。)好奇心だけであろうか。そんな筈はない。占いの目的は何であろうか。占いが行われるのは、何故であろうか。それは、将来を見通すことではないか。人相により自分の将来を占わせる者もいれば、人相により幸運に恵まれるか如何を占わせる者もいる。将来の結婚がどのようなものになるかを占わせる者もいれば、来年どのような運勢が待ち受けているかを占わせる者もいる。人相により自分の息子や娘の将来に関する様々な事柄の見込を占わせる者もいれば、将来の収益を占わせて何をすべきかに関する指導を受ける経営者もいる。また単に自分の運勢や将来を知りたいと思うだけの者もいる。こうした事の目的は、好奇心を満たすことだけであろうか。(そうではない。)人々が人相占いなどを受ける場合、それは自分の将来における個人的利益のためであり、こうした物事が自分の運命と密接に関係していると考えている。こうした物事のうち、有益なものはあるだろうか。(ない。)それが有益でないのは何故だろうか。将来について多少知ることは、良いことではなかろうか。そうすることで、いつ災いが起こるかがわかるので、それを事前に知っていれば、その災いを回避できるであろう。運勢占いを受ければ、それを指針とすることが出来るので、翌年は良い年となり、商売をして富を得ることが出来る。それは有益ではないだろうか。(有益では無い。)ここでは、それが有益であるか如何は無関係である。つまり本日はそれについて伝えず、またそうした内容や事項は本日の話と無関係である。サタンは、どのように迷信を用いて人間を腐敗させるのであろうか。易断や人相占い、運勢占いなどに関して人間が知っていることは、将来の自分の運勢がどのようなものか、将来の道がどのようなものかを知る事が出来るということだが、結局のところ、既にそうした物事を支配しているのは、誰の手であろうか。(神の手である。)そうした物事は神の掌中にある。サタンは、こうした手段を用いて人間に何を知らせたいのであろうか。サタンは人相占いや易断を用いて、サタンが人間の将来における運勢を知っているということ、それらのことをサタンは知っているし支配しているということを、人間に知らせたいと考えている。サタンはそうした機会と手段を用いて、人間を支配し、人間がサタンを盲目的に信じ、サタンによる全ての言葉に従うようにしたいと考えている。たとえば、あなたが人相占いを受け、占い師が目を閉じて過去数十年間のあなたの出来事を全て明確に述べたとしたら、あなたはどう思うであろうか。あなたは「この占い師は実に正確に言い当てるので、素晴らしい。自分の過去について誰にも話したことが無いのに、この占い師はどうしてそれを知っているのだろうか。」と、とっさに感じるに違いない。サタンにとって、あなたの過去について知ることは、それほど困難ではないであろう。神は現在まであなたを導いており、またサタンはその間常に人間を腐敗させ続け、あなたをつけ回してきた。サタンは悪霊であり、あなたの数十年間という時の流れはサタンにとって些細なことであり、そうした物事を知るのは困難では無い。サタンが述べた事柄が正確であると知ったなら、あなたはサタンに心を明け渡さないだろうか。あなたの将来や運勢について、サタンの支配に依存していないであろうか。あなたの心は一瞬にしてある程度の尊敬や敬意を覚え、一部の人々の心は、既にサタンに奪われることもある。そしてあなたは即座に、「次に何をすべきだろうか。来年は何を避けるべきであろうか。私がしてはならないことは何であろうか。」と占い師に尋ねるであろう。すると占術師は「そこへ行ってはならない、あれをしてはならない、その色の服を着てはならない、そこへ足繁く通ってはならない、もっとこれをすべきだ。」などと答えるであろう。あなたは占術師の言葉を、すべて即座に心に留めないであろうか。(心に留める。)占術師の言葉を、神の言葉よりも早く覚えるであろう。あなたが占術師の言葉をそれほどまで迅速に覚えるのは何故であろうか。(その言葉が自分に有益であるから。)あなたはサタンを頼って幸運を得ようとするので、サタンがあなたの心を掴むのは、この時ではないであろうか。あなたがサタンの言葉通りに行動し、それにより予想通りの結果を得たとき、あなたはサタンのところに戻って、来年の運勢はどうなるかを知りたいと思うのではなかろうか。(その通りである。)あなたはサタンの言いなりに行動し、サタンが避けよと言うものを避けるが、それではあなたはサタンの言葉すべてに従っているのではなかろうか。あなたはすぐにサタンの庇護に入り、サタンに惑わされ、支配されるようになる。これは、サタンの言葉をあなたが真理であり、サタンがあなたの過去や現在の人生、そしてあなたの将来がどうなるかを知っていると信じることが原因であり、それが、人間を支配するためにサタンが用いる方法である。しかし、実際に支配しているのは誰であろうか。それは神自身であり、サタンではない。サタンはまやかしにより、無知な人々や、物質世界しか見えない人々を欺き、サタンを信じさせ、サタンに依存させる。このようにして人間はサタンの掌中に陥り、サタンの言葉すべてに従う。しかし、人々が神を信じ、神に付きしたがいたいと望む時、サタンは引き下がるであろうか。サタンは引き下がらない。こうした状況で、人々は本当にサタンに捕らわれているであろうか。(捕らわれている。)これに関するサタンの行動は真に無恥であると言えるであろうか。(言える。)そう言えるのは何故であろうか。(サタンは策略を用いるから。)サタンの策略は不正と偽りだからである。サタンは無恥であり、サタンは人間を惑わせ、サタンが全てを支配していると考えさせ、人々を騙してサタンが人々の運命を支配していると考えさせる。それにより無知な人間は完全にサタンに服従させられ、サタンは一言、二言で人間を騙し、人間はぼうぜんとしてサタンにひれ伏すのである。そうではないだろうか。(その通りである。)それでは、サタンはどのような手段を用い、どのような言葉であなたにサタンを信じさせるであろうか。たとえば、あなたが自分が何人家族かをサタンに伝えていないかも知れないが、サタンはあなたが3人家族で、7歳の娘がいると言うだけでなく、あなたの両親の年齢まで言うかも知れない。あなたが最初に疑念を抱いているとすると、それを聞いてサタンを少し信用出来ると感じるのではなかろうか。(その通りである。)するとサタンは「今日の仕事は困難で、あなたは上司から然るべき評価を受けられず、上司は常にあなたに反対している。」などと言うかも知れない。それを聞いたあなたは「まさにその通りだ。仕事はまったくうまくいっていない。」と思うであろう。それで、あなたはサタンをさらに信じるようになるであろう。そして、サタンは別の事を述べてあなたを騙し、さらにサタンを信じさせ、あなたは少しずつ自分がサタンを拒否することも、疑うことも出来なくなっていることに気付くであろう。サタンは些細な策略や、つまらない策略を何回か用いるだけで、あなたを魅惑しようとする。あなたは魅惑されているので、自分の姿勢を保つことが出来なくなり、何をして良いか分からなくなって、サタンの言葉に従い始めてしまう。これが、人間を腐敗させる上でサタンが用いる「実に聡明な」手段であり、その手段により、あなたは無意識のうちにサタンの罠にはまり、誘惑される。お分かりの通り、サタンは人間が良いと推測する事柄をいくつか述べてから、あなたが何をすべきか、何を避けるべきかを述べるが、そうしたことからあなたが罠にはまる過程が始まる。ひとたびこの過程が始まると、問題ばかりが発生し、サタンの言葉や、サタンがあなたに命じた行動のことを常に考え、気付かぬうちに、サタンに取り憑かれる。それは何故であろうか。それは、人間に真理が欠如しているため、人間はサタンの誘惑に対抗することが出来ないためである。サタンの邪悪さと狡猾さ、欺き、悪意に対して、人間は極めて無知であり、騙されやすく、弱いであろう。これは、サタンが人間を腐敗させる方法のひとつではないだろうか。(その通りである。)人間は肯定的なものと否定的なものを区別する能力が欠如しているため、無意識のうちに、サタンの様々な手口によって徐々に惑わされ、騙されてゆく。人間にはそうした背丈や、サタンに打ち克つ能力が無い。

E: サタンが社会動向を用いて人間を腐敗させる方法

社会動向は新たな現象であろうか。(そうではない。)それでは、社会動向はいつ始まったであろうか。社会動向はサタンが人間を腐敗させ始めた時に発生したと言えるであろうか。(言える。)社会動向には何が含まれるだろうか。(衣服や化粧のスタイルが含まれる。)それは人間が頻繁に接する物事である。衣服のスタイル、ファッション、流行などは、小さな側面である。それ以外に回答はあるだろうか。人々が口にする、馴染みのある格言も含まれるであろうか。人々が望む生活様式は含まれるであろうか。人気のある音楽家や有名人、雑誌、小説は含まれるであろうか。(含まれる。)あなたがたは、こうした社会動向のどの側面が人間を腐敗させ得ると思うであろうか。あなたがたにとって、こうした社会動向のうち、最も魅力的なものはどれであろうか。一部の人々は「我々はもう40代、50代、60代、70代、80代だから、そうした社会動向について行けない年齢に達しているし、社会動向に関心も無い。」それは正しいだろうか。(正しくない。)また別の人々は「有名人に関心は無いし、有名人に高い関心を示すのは10代、20代の若者達である。我々は洒落た衣服を着ないし、衣服に高い関心を示すのは外観を気にする人々である。」と言うであろう。それでは、これらのうちあなたがたを堕落させ得るのは、どちらであろうか。(よく知られた格言である。)良く知られた格言は人間を腐敗させ得るであろうか。ここに挙げる一例で、その格言が人間を腐敗させ得るかをあなたがたが判断してほしい。「地獄の沙汰も金次第」これは社会動向のひとつであろうか。これは、あなたがたが挙げたファッションやグルメの社会動向と比較すると、格段に悪質では無かろうか。(その通りである。)「地獄の沙汰も金次第」はサタンの哲学であり、様々な人間社会に浸透している。この格言は人間ひとりひとりに伝えられており、各人の心の中に定着しているので、社会動向であると言えるであろう。人々はこの格言を受け容れないが、次第に馴染み深くなり、実生活のなかで、その格言に暗黙の了解を示し、その存在を認め、最終的にその格言に同意してしまう。そうではないだろうか。(その通りである。)サタンはこうした過程を通して、人間を腐敗させるのではないだろうか。ここにいるあなたがたは、おそらくこの格言をそこまで理解しないだろうが、身の回りの出来事や個人的経験に基づいて、誰でもその人なりの解釈や認識を持っているはずだ。この格言について、ある者がどの程度の経験があるかを問わず、この格言がその者の心に及ぼす悪影響は、何であろうか。(人間は金銭が万能であると考え、金銭を重んじるようになる。)ここにいるあなたがたを含め、この世の人々のこうした人間的性質により、何か明示されている事柄がある。この格言はどのように解釈されているであろうか。それは金銭の崇拝である。この拝金主義を心の中から排除するのは、困難かというと、それは極めて困難である。サタンの人間腐敗は極めて徹底的であると考えられる。そう言えるであろうか。(言える。)サタンがこの社会動向により人々を腐敗させた後、それは人間にどのように表出されるであろうか。あなたがたは、金銭が全く無い状態では、一日たりとも生存することができない、それは不可能であると感じないであろうか。(感じる。)人間の地位や、その者がどの程度尊敬できる人間かは、所有する金額を基準としている。貧困者は恥辱のため背を丸め、その一方で富裕な者は高い地位を得る。富裕な者は堂々と胸を張って威張り、大きな声で発言し、傲慢な生活を送る。この格言と社会動向は、人間に何をもたらすであろうか。多くの人々が、金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていないであろうか。人々は、より多くの金銭を得るために、威厳や誠実さを犠牲にしていないであろうか。多くの人々が、金銭が原因となって、自らの本分を尽くして神に付き従う機会を失っていないであろうか。これは人々にとって損失ではなかろうか。(その通りである。)こうした手口と格言を用いて人間をそれほどまでに腐敗させるサタンは邪悪ではなかろうか。これは悪意に満ちた策略ではなかろうか。人間がこのよく知られた格言を否定する段階から最終的にそれを真理であると認める段階へと進むうちに、人間の心は完全にサタンに奪われ、気付かぬうちにサタンに従って生きるようになる。この格言は、あなたにどの程度影響を与えているであろうか。あなたは真実の道や真理を知っているかもしれないが、無力なのでそれを追求できない。あなたは神の言葉を明確に知っているかも知れないが、進んで代償を払おうとも、代償を払うために苦難を受けようともしない。あなたは、むしろ自分の将来や目的を犠牲にして、最後まで神に反抗しようとする。神が述べる言葉や行う業を問わず、また、あなたに対する神の愛が深遠であることを、あなたがどの程度認識しているかを問わず、あなたはこの格言のために犠牲を払い、頑なに自分の指針を維持するであろう。このことは、この格言があなたの行動や思想を既に支配しており、格言を忘れるよりも、むしろこの格言に自分の運命を支配されることを望んでいる、ということを意味する。人間はこうした行動を取り、この格言に支配され、操られている。これは、人間を腐敗させるサタンがもたらす効果ではないだろうか。これはあなたの心に根付いているサタンの哲学と堕落した性質ではなかろうか。あなたがこうした行動を取った時、サタンはその目的を達成したのではないだろうか。(その通りである。)あなたは、サタンがこのようにして人間を腐敗させてきたことを理解できたであろうか。(理解できない。)あなたには理解できない。それを感じることができるであろうか。(感じることができない。)あなたには感じることができない。こうした場合のサタンの邪悪さを理解したであろうか。(理解した。)サタンは時間や場所を問わず、人間を腐敗させる。サタンは人間がこの腐敗から身を守ることを不可能にし、人間をこうした腐敗に対して無力にさせる。サタンは、あなたが無意識な状態にあり、あなた自身に何が起きているかを全く認識していない状況の中で、自分の考え方や観点、そしてサタンに由来する邪悪な物事を、あなたに受け容れさせる。人間はそうした物事を全面的に受け容れ、それらに例外は無い。人間はそうした物事を宝のように大切にし、そうした物事が自分自身を操り、もてあそぶ事を容認する。こうしてサタンによる人間の腐敗は、一層深まってゆく。

以前に説明した、サタンが人間を腐敗させる幾つかの方法は、明瞭なものであり、誰もが経験したことのあるものである。サタンはそうした方法を用い、それらの方法から逃れることは出来ない。人間には知識と多少の科学的理論があり、伝統文化の影響を受けて生活し、誰もが伝統文化の継承者である。人間はサタンに与えられた伝統文化を継承することを強制されると同時に、サタンが人類に与えた社会動向と強調した行動を取る。サタンから逃れることができず、サタンの業に常に協力し、その狡猾さ、傲慢さ、悪意と邪悪さを受け容れ、こうしたサタンの性質を身に付けた後、人間はこうした人類の中で、こうした世界で生活していて、幸福であろうか、それとも悲しくなるであろうか。(悲しくなる。)そう言うのは何故であろうか。(人間はそうした物事に束縛され、その人生は酷く困難なものだからである。)眼鏡をかけた賢明ないでたちの者を見かけるかも知れない。その者は声を荒げる事なく、常に雄弁で、合理的であり、なにより年輩なので、おそらく様々なところを通り、経験豊富である。大小様々な事柄について詳細に話すことができるであろうし、その発言には確固たる根拠があり、物事の信憑性や理由を評価する様々な理論を身に付けているであろう。人々は、その者の行動や外観、態度、誠実さ、性格を見て、その者に何ら欠点を見出すことが出来ない。特にこうした者が現在の社会動向に迎合し、こうした者は時代遅れであるとみなされることは無く、前衛的で洗練されているとされる。こうした者は年輩であっても、決して時流に遅れることなく、年を重ねても常に新しいことを学んでいる。表面的には、誰もその者の欠点を指摘することは出来ないが、こうした者の内面はサタンにより完全に腐敗させられている。表面的には欠陥が無く、柔和で洗練され、知識があり、ある程度の倫理もわきまえている。誠実であり、知識は若者の知識と比べて引けを取らない。しかし、この者の本性と本質に関しては、サタンの完全なる化身であり、分身である。この者は、サタンによる人間腐敗の「成果」である。あなたがたにとって心が痛むかも知れないが、わたしの話は全て真実である。人間が学習する知識、理解する科学、社会動向に合わせた方向性は、例外無くサタンによる腐敗の道具である。これは絶対的に正しい。したがって、人間はサタンにより完全に腐敗された性質のなかで生活し、神の聖さや本質とは何かを知る術は無い。なぜなら、人間はサタンが人間を腐敗させる手段について、表面的には欠点を見つけられないからであり、誰かの行動から何か誤りがあることを指摘できないからである。人々はそれぞれいつも通りに職務に精を出し、普通の生活を送り、普通に書籍や新聞を読み、普通に学習して発言する。さらに、表面的な道義を装うことを覚えて、挨拶をし、礼儀正しく丁寧な態度で、他人に対する思いやりを持って、友好的に振る舞い、他人の役に立ち、寛大に振る舞うことが可能であり、他人に対して気難しい態度で接したり、利用したりすることを避ける人々もいる。しかし、サタンの腐敗した性質は人々の中に深く根ざしており、それは外部的な努力に依存して変えることができない。こうした本質が原因となって、人間は神の聖さを知ることができず、また神の聖さの本質が人間に対して公表されているにもかかわらず、人間はそれを真剣に考慮しない。それは、様々な手段により、既にサタンが人間の感情や概念、観点、思想を完全に掌握しているからである。この掌握と腐敗は一時的なものでも偶発的なものでも無く、至る所に常に存在する。したがって3年から4年、あるいは5年から6年程度にわたって神を信仰する人々の多くは、依然としてサタンがその人々に浸透させた思想や観点に、あたかも宝を握りしめているかのように、固執している。人間はサタンの邪悪で傲慢な悪意に満ちたサタンの本性を受け容れたため、必然的に人間同士の関係には対立、論争、不和があるが、これはサタンの傲慢な本性の結果として生まれる。サタンが人間に肯定的な物事を与えていたとしたら、すなわち例として人間が受け容れた伝統文化の儒教や道教が肯定的なものであると考えられるとしたならば、そうした物事を受け容れた後、同じ種類の人間同士は互いに仲が良いはずであろう。それならば、そうした共通の物事を受け容れた人々が大いに分裂するのは何故であろうか。それは何故であろうか。それは、そうした物事がサタンに由来し、サタンが人間同士を分裂させるからである。サタンが与える物事は、如何に表面的には高潔で偉大に見えたとしても、人間や人間の生活には傲慢さしかもたらさず、サタンの邪悪な本性の狡猾さでしか無い。そうではないだろうか。自分を偽ることが出来て、教養が深い者、あるいは育ちの良い者は、自分の邪悪な本性を隠すのに苦労する。いくら数多くの手だてを用いてそうした者が自分を隠したとしても、あなたが、その者が聖人である、完璧である、あるいは天使であると考えたとしても、あなたのその者に対する考えがいかに純粋であったとしても、そうした者の生活の裏舞台は、どのようなものであろうか。そうした者の本性が明示されることにより、あなたには、どのような本質が見えるであろうか。間違い無く、あなたはサタンの邪悪な本性を見るであろう。そう言えるであろうか。(言える。)たとえば、あなたがたに親しい者で、あなたが善人である、あるいは善人であると考えたことがある者、あなたが崇拝したような人がいたとしよう。現在におけるあなたの背丈では、その者をどう思うであろうか。まず、あなたはその者に人間性があるか、誠実であるか、人々に対する真の愛があるか、その者の言動が他人のためになるかどうかを考えてみよう。(そのようなことはない。)ここで表現されている、いわゆる親切、愛や善良さは、本当は何であろうか。それは見かけであり、偽のものである。そうした舞台裏の見かけには、隠れた邪悪な目的がある。その目的は、その者を愛され、崇拝される存在とすることである。あなたがたには、それがはっきりと分かるであろうか。(分かる。)

人間を腐敗させるためにサタンが用いる方法が人間にもたらすものは、何であろうか。何かしら肯定的なものは、あるだろうか。(無い。)第一に、人間は善と悪を区別できるであろうか。(出来ない。)あなたも知っているとおり、この世界では、偉人や新聞、ラジオ局などが、あれが善良なもので、これが邪悪なものだ、などと述べているが、それは正確であろうか。(正確ではない。)それは正しいであろうか。(正しくない。)そうした事件や人々に関する評価は公正であろうか。(公正ではない。)そこには真理があるであろうか。(無い。)この世や人類では、善良なものと邪悪なものが真理を基準として評価されているだろうか。(そうではない。)人間にそうした能力が無いのは、何故だろうか。人間は多くの知識を習得し、科学の知識を身に付けているが、人間の能力は十分ではないのだろうか。人間が肯定的な物事や否定的な物事を区別できないのは何故だろうか。それは何故であろうか。(人間には真理が無いからである。科学や知識は真理ではない。)サタンが人類にもたらす物事は、すべて邪悪であり、腐敗であり、真理やいのち、道が欠如している。サタンが人間にもたらす邪悪と腐敗から考えると、サタンには愛があると言えるであろうか。人間には愛があると言えるであろうか。一部の人々は「あなたは間違っている。世の中には貧しい人々やホームレスの人々を支援している人々が多数いる。こうした人々は善人ではないか。そのほかにも、好ましい取り組みを行っている慈善団体があるが、それらの団体の取り組みは善行であろう。」と言うかもしれない。これについては、何が言えるであろうか。サタンは様々な方法や理論を用いて人間を腐敗させるが、この人間の腐敗は曖昧な概念であるか、というと、曖昧ではない。サタンは実践的な物事も行っており、好ましい物事を装う偽物や、極めて詐欺的な行為も多数含まれており、サタンはそうした行為を自らの意図と目的で行う。腐敗した人間はサタンと同様であり、この世界と社会に存在し、何らかの観点や理論を促進している。それぞれの王朝や時代において、そうした人々は何らかの理論を推進し、人間に何らかの思想を浸透させる。そうした思想や理論は、次第に人間の心に根ざしてゆき、人間はその理論や思想に基づいて生活するようになるが、人間は気付かぬうちにサタンとなっているのではないか。人間はサタンと一体化していないであろうか。人間がサタンと一体化すると、最終的にそうした人間は神に対してどのような姿勢となるであろうか。その姿勢は、サタンの神に対する姿勢と同じではないだろうか。敢えてそれを認めようとする者はいないであろう。それは極めて恐ろしいことである。人間はサタンであり、その本性はサタンの本性そのものである。わたしがサタンの本性が邪悪であると言う理由は何であろうか。それは、サタンのなした業と明示した事柄に基づいて判断され、分析されたことである。サタンが邪悪であると述べることには、意義がある。わたしが単にサタンが邪悪であると言った時、あなたがたはどう思うであろうか。「サタンが邪悪であるのは明らかだ。」と思うかも知れない。そこで、あなたに質問する。「サタンのどの側面が邪悪なのであろうか。」あなたが「サタンの神を拒絶する側面が邪悪である」と言うようであれば、あなたの話は明瞭ではない。ここでその詳細を説明したが、あなたがたはサタンの邪悪の本質に関する具体的な内容について理解しているであろうか。(理解した。)あなたがたは、サタンの邪悪な本性に関して理解した後、あなたがた自身について、どの程度理解したであろうか。これらの事柄に関連性があるだろうか。(ある。)あなたがたは、その関連性により傷付くであろうか。(傷付かない。)その関連性はあなたがたの助けとなるであろうか。(なる。)それは、どの程度の助けとなるであろうか。(極めて大きな助けとなる。)それでは具体的に話そう。曖昧な言葉は聞かないことにする。その「極めて大きな」とは、どの程度を指しているか。(神が忌み嫌われる事柄や神に対抗して作用する事柄について知り、心の中でそれらの事柄について少し明瞭に理解した。)それ以外に回答はあるだろうか。わたしが神の聖い本質について伝える時、わたしはサタンの邪悪な本質について伝える必要があるだろうか。あなたがたはどう考えるだろうか。(伝える必要がある。)それは何故か。(サタンの邪悪さにより、神の聖さが浮き彫りとなるからである。)そうであろうか。サタンの邪悪さ無くして、人間は神の聖さを知ることができないという意味において、それは部分的に正解である。しかし、神の聖さは、サタンの邪悪との対比によってのみ存在する、と言った場合、それは正しいであろうか。この主張は誤りである。神の聖さは、神に内在する本質である。神はそれを明示し、あるいは業を行うが、この聖さは神に内在する本質であり、それが自然に明示されるのであり、それは神自身に固有のものであり、常に存在するが、人間が見ることの出来ないものである。人間はサタンの腐敗した性質と本質の中で生きているので、聖さや神の聖さの具体的な内容について知らない。そうではないだろうか。それでは、あなたは、ここで最初にサタンの邪悪な性質に関して伝える必要があると思うであろうか。(そう思う。)あなたも知っているとおり、神の唯一性に関する側面をいくつか伝えたが、サタンの本質については述べなかったであろう。「あなたは神自身について伝えているのに、なぜ常にサタンが人間を腐敗させる方法やサタンの本性がいかに邪悪であるかについて話をするのか」という疑念を抱く者がいるかもしれない。こうした疑念は払拭されたであろうか。(払拭された。)こうした疑念はどのようにして払拭されたであろうか。(神との交わりにより邪悪な物事を区別することで払拭された。)人間に邪悪を識別する能力があり、人間が邪悪の正確な定義を知っていて、邪悪の具体的な内容と顕現、根源と本質を明瞭に理解している場合、ここで神の聖さについて議論した時に、人間は神の聖さを、真の聖さとして明確に認識するであろう。サタンの邪悪さについて話をしなかった場合、人間がこの社会や人々の中でとる行動、あるいはこの世界の何らかの物事が、聖さと関連するものであるかもしれないと、誤解する者がいるであろう。この見方は誤っているであろうか。(誤っている。)それ故に、わたしはサタンの本質について伝えた。あなたがたは、自分自身の近年における経験や神の言葉を理解すること、神の業を体験することによって、神の聖さについてどのような認識を得たであろうか。あなたがたに発言して欲しい。聞こえの良い言葉を用いる必要は無い。あなた自身の経験から話をして欲しい。神の聖さは、単に神の愛であろうか。人間が聖さと呼ぶのは、単に神の愛であろうか。そう呼ぶのは、極めて一面的であろう。それは一面的ではなかろうか。(一面的である。)あなたがたが見た神の本質は、神の愛以外の側面があるであろうか。(ある。)どのような側面を見たことがあるであろうか。(神は祭礼や祝祭日、慣習、迷信を嫌悪する。そのことは神の聖さである。)あなたは神が特定の物事を嫌悪していると言っているに過ぎない。あなたが述べているのは、神は聖なる存在であり、そのために物事を嫌悪する、ということであろうか。(その通りである。)その根底にある神の聖さは、何であろうか。神の聖さの内容には実体が無く、単に神が物事を嫌悪するのであろうか。あなたがたは、自分の心のなかで「神はこうした邪悪な物事を嫌悪するので、神は聖なる存在であるということが出来る」と考えているであろうか。それは推測ではないであろうか。それはある種の推論と意見ではなかろうか。神の本質を理解することに関し、最も固く禁じられている事は何であろうか。(現実を無視することである。)現実を無視して理論を述べることは最も固く禁じられている行動である。その他にはあるだろうか。(憶測と想像である。)憶測と想像もまた固く禁じられている。憶測と想像が役立たないのは何故であろうか。憶測したり想像したりする物事は、実際に見ることのできる物事であろうか。(そうではない。)そうした物事は、本当に神の本質であろうか。(そうではない。)そのほかに固く禁じられている物事はあるだろうか。神の本質に関する美辞麗句を列挙することは、固く禁じられている事であろうか。(その通りである。)そうした行動は自慢であり、無意味な事ではなかろうか。意見や憶測も、美辞麗句を並べることと同様に無意味である。それ以外に回答はあるだろうか。空虚な讃美もまた無意味であろう。(その通りである。)こうした無意味な事柄を人間が話すのを聞いて、神は喜ぶであろうか。(喜ばない。)何かを「喜ばない」ということの同義語は何であろうか。(不快に感じるということである。)神はそれを聞いて不快になるのだ。神はひとつの群れの人々を導き、救うが、その人々が神の言葉を聞いても、その意味を全く理解していない。誰かが「神は善良であるか」と尋ねると、その人々は「善良である」と答える。「どのように善良であられるだろうか」「極めて善良である」「神は人間を愛しているだろうか」「愛している」「どの程度愛しているだろうか」「非常に深く愛している」「神の愛を説明してもらえるだろうか」「神の愛は海よりも深く空よりも高い」これは戯言ではなかろうか。この戯言は、あなたがたが今述べた「神はサタンの腐敗した性質を忌み嫌うので、神は聖なる存在である」ということと類似していないであろうか。(類似している。)あなたがたが述べたことは、戯言ではなかろうか。述べられた無意味な事柄の大部分は、何に由来するであろうか。(サタンに由来する。)そうした事柄の大部分は、サタンに由来する。述べられた無意味な事柄は、主として人間の無責任さと神に対する不敬が原因である。そう言えるであろうか。(言える。)あなたは何も理解していないのに、戯言を述べたが、それは無責任ではないだろうか。それは神に対する不敬ではないか。あなたは多少の知識を得て、その理由と理論を多少理解し、それらをここで用い、神を知るためにそれを用いた。あなたは、神がそれを聞いて不快になると思うであろうか。あなたがたは、そうした方法により神を知ることなどできることがあろうか。それは不自然だと思わないであろうか。ゆえに、神に関する認識については大いに注意する必要がある。神について知っている範囲のみを述べるように。正直かつ実際的に話をし、ありきたりの褒め言葉や、媚びへつらうような言葉を述べてはならない。神はそうしたことを必要とせず、またそうしたことはサタンに由来する物事である。サタンの性質は傲慢であり、サタンはお世辞や美辞麗句を好む。サタンは、人間が美辞麗句を並べ、それをサタンに用いたならば、満足して喜ぶであろう。しかし、神はそうしたことを必要としない。神はへつらいやお世辞を必要とせず、人間に無意味な言葉で盲目的に神を讃美することを要求しない。神は、現実離れした讃美やお世辞を嫌悪し、聞こうともしない。したがって、誰かが神を盲目的に讃美し、心にもない言葉を発し、盲目的に神の前にひれ伏し、神に対して不用意に祈りを捧げた場合、神は全く聞かない。あなたは、自分の言葉に責任を持つ必要がある。知らない事がある場合、知らないと述べ、知っていることがある場合、実際的な方法でそれを示す必要がある。ここまでの話で、あなたがたは神の聖さの実際の内容について、具体的な認識を得たであろうか。これで、今後あなたがたは敢えて無意味な事を述べることは無いであろう。あなたがたは無意味な事を言わないが、喋るのを止めることは出来ない。したがってある程度の認識を得る必要があるであろう。あなたがたは、そのことについて考えているであろうか。あなたがたは誠意を持ってそのことに対処しているであろう。ここで、あなたがたに発言して欲しい。(私が反抗を示したり、罪を犯したりした場合、私は神の裁きと懲らしめを受けるが、そこに神の聖さを見出した。そして、私が自分の期待通りではない状況や環境に陥った場合、私はそうした物事について神に祈りを捧げ、神の御旨を求め、神は私に示しを与え、導かれ、私は神の聖さを見た。)なるほど、それはあなた自身の経験に由来するであろう。(私は、神が人間を導かれ、神が人間を支配されていることに、神の聖さを見出す。実際に、サタンが人間を腐敗させることや、人間がサタンの腐敗と被害を受けながら生活していること、人間にはそれを制御出来ないことに関して神が話されたことから、神の人間に対する御業を通して私は本当に神の聖さを理解した。)(私は神が述べられた事柄から、人間はそのようにサタンに腐敗させられ、侵害されているということを理解した。しかし、神は全てを与えられて人間を救おうとされており、私はそのことから神の聖さを理解した。)それは実際的な話し方であり、真の認識である。これについて、その他の意見はあるだろうか。(私は自分が正しく理解しているかどうかが分からない。たった今神が私達に述べられたことでは、サタンの言葉や業からサタンの邪悪さが分かる。最初の話では、神は人間に対し、食べて良い物と食べてはならない物について述べられた、また神の御言葉では清さと率直さが明示されている、という話であったが、その話から、神の聖さを理解した。それが私の追加意見である。)なるほど。これらの者の意見を聞いて、あなたがたが最もアーメンと言える意見は、どれであろうか。本日伝えた内容に最も近く、現実的な話は、誰の話であっただろうか。最後に話をした姉妹の話はどうであろうか。(良いであろう。)あなたは、この姉妹の話にアーメンと言うなら、彼女の話のなかで、まさに的中している事柄は何であろうか。あなたがたは、率直に意見を述べてよい。誤りを恐れず自分の意見を述べるように。(最後に話をした姉妹の言葉のなかで、サタンの回りくどい話とは全く異なり、神の御言葉は率直で極めて明瞭であると言っていた。私はそのことに神の聖さがあると思う。)なるほど、それは神の聖さの一部である。あなたがたは、今述べられた意見を聞いていただろうか。(聞いていた。)これは正しいであろうか。(正しい。)この姉妹を讃えよう。素晴らしい。あなたがたは最近行われた2回の話から何かを得たようである。しかし、あなたがたは努力を続ける必要がある。あなたがたが努力を続けなければならないのは、神の本質を理解することは、極めて奥の深い学びであり、一夜にして理解できるものでも、わずかな言葉で明瞭に述べることができるものでも無いからである。

人間の腐敗したサタンのような性質、知識、哲学、人間の思想、観点のあらゆる側面、そしてそれぞれの解釈が、神の本質を知る上で大きな障害となる。したがって、あなたがたがこうした主題に関する話を聞く時は、あなたがたの手が届かない主題や、理解できない主題や、現実と一致させることが根本的に出来ない主題があるかも知れない。それにかかわらず、神の聖さに関するあなたがたの理解について聞き、あなたがたは、神の聖さについてわたしが話した事柄を心の中で認め始めていることが分かる。あなたがたの心の中では、神の聖さの本質を理解したいという願望が芽生えていることが、わたしには分かる。しかし、わたしがそれ以上に喜んでいる事柄は何であろうか。それは、あなたがたのうちに、神の聖さに関する認識を最も簡潔な言葉で説明できる者がいることである。これは述べるのは簡単な事であり、わたしが依然述べた事であるが、あなたがたのうち殆どの者の心の中では、このことは未だに認められておらず、印象に残っていない。それでもなお、あなたがたの中には、これらの言葉を心に留めている者もいるというのは好ましいことであり、最初の一歩としては極めて良好である。あなたがたが深い主題である、自分には手が届かないと感じる主題について、話のなかであなたがたが引き続き取り組み、より深く交わりを行うことを願っている。あなたがたの手が届かない問題については、あなたがたを更に導く者がいるであろう。現在、手の届く範囲に関する話に一層取り組んでゆけば、聖霊の業により、更に理解できるようになるであろう。神の本質を理解することと知る事により、人間の霊的成長にもたらされる助けは計り知れない。あなたがたがそのことを無視したり、余興であると考えたりしないことを願っている。なぜなら、神を知る事は人間の神に対する信仰や、真理と救いを追求することにとって必要不可欠な基礎であり、なくてはならないものだからである。人間が神を信仰しつつ神を知らず、文字や理論だけで生活しているのであれば、たとえ表面的な真理の言葉に従って生きていたとしても、決して救いを得ることは出来ない。つまり、あなたの神の信仰が、神を知る事に基づくものでなければ、その信仰は無意味である、ということである。これについては理解したことと思う。(はい、理解した。)本日のフェローシップはこれで終わりである。

2014年1月4日

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