正直には大きな幸福がある

安徽省合肥市 感恩

わたしの生活において、わたしは他人との関わりではいつも「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という言葉に従ってきた。わたしは簡単に他人を信頼することは決してない。誰かの本当の意図を知らない状況で自らの手を早く見せすぎてはならないとわたしはいつも感じた。それだから平和的な態度を保つだけで十分である。このようにしてあなたは自らを守り、仲間から「良い人」と思われるだろう。

世の終わりにわたしが神の働きを受け入れた後でさえ、わたしは他人への対処でこの格言を守った。わたしたちは清らかで率直で正直であれと神が求めるのを理解したとき、わたしは個人的な関心がないわずかな事柄についてのみ率直だった。わたしの兄弟姉妹たちがわたしを見下ろすことを恐れて、本当に堕落していると感じるわたしの性質のこうした面を共有することはほとんどないだろう。わたしの指導者がわたしの働きが形だけなのを見てわたしを指摘するとわたしは不安感と疑念に満ち、「なぜわたしの指導者はいつもわたしを選び出し、わたしの兄弟姉妹たちの前でわたしの状況の細々としたことを調べるのか。このために人々の前でわたしが面目を失い、当惑するのは明らかではないか。おそらくわたしの指導者はわたしに熱心ではないのでわたしのあら探しをするようにしたのではないか」とひそかに考えた。わたしが同じ地位に留まる間に他の兄弟姉妹たちが昇進しているのを見るのは特に苦痛で耐え難いものだった。わたしを鍛える価値がないのでわたしは昇進させられていないと思った。わたしの心は誤解や不安に溢れた。わたしには未来がなく、この道を歩き続けても仕方がないと感じた。わたしは常に警戒して他人を疑っていたので、わたしは神をますます誤解し、神とのつながりがますます少なくなったと感じた。わたしの状態はますます異常になり、ついにわたしは聖霊の働きとの関わりがなくなり、闇に落ちた。

苦しみの深みで、迷い、方向を失い、わたしは神の言葉のこの一節を見つけた。「あなたが非常に狡猾であるならば、あなたはすべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考を持っているであろう。このため、あなたのわたしに対する信仰は疑念の基礎に基づいている。わたしはそのような信仰は決して認めていない。本当の信仰がなければ、愛は本当の愛からはほど遠い。そして、神を疑い、意のままに推測するようであれば、間違いなくあなたは最も狡猾な人である。」(『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか 」より)」 神の言葉をあれこれ考えつつ、わたしは突然、日々の自分の行動を思案した。始めにわたしは「すべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考」により生きてはいないかと思った。そのようなものとして、神の目にわたしは狡猾な人間でなかったか。その瞬間、「狡猾な人」という言葉は鋭い刃のようにわたしの心を突き刺し、耐え難い苦しみを引き起こした。「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という格言を守っている限り仲間から良い人と考えられているとわたしはいつも思っていたので、他人の対処や仕事を行う上でこうした言葉によって生きていた。生涯で、この格言によって生きることがわたしを狡猾な人に変えると疑ったことはなかった。これは「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」というわたしが長い間守ってきた格言が真理に合致せず、神の言葉とは直接矛盾することを意味した。思い出せる限りの間わたしが支持してきたいのちのこの哲学が、一見一夜にして神の言葉によって打ち倒され否定さられたのを見てわたしはショックを受けた。しかし、諸事がそのようであろうと、わたしは事実を受け入れるしかなかった。わたしは自らを落ち着かせ、あれこれ考え、わたしが長年支持してきたこの格言を再評価した。時間の経過とともに、神の啓示のおかげでわたしはついにこの言葉に新しい理解と洞察を得た。表面的には「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」というのは十分に理解できる意見で、ほとんどの人々の善悪の考えに沿っているように見える。一見するとその意見には何も間違いがあるようには見えない。わたしたちは他人から自らを守るべきで、他の人に害を及ぼすようなことはしてはならないと述べているからである。さらに、この格言によって生きればわたしたちは罠に陥らずにすみ、良い人になるにはどうすればよいかを学ぶことができる。しかし、この言葉を細かに検討すると、これは実際にはサタンが人々を堕落させる殊更に悪意のある方法であることが明らかになる。この言葉は誰も信じることはできない、誰であれあなたに害を及ぼすことができるので、あなたが他人に対処する際に決して全面的に支持し受け入れてはならないとひそかにわたしたちに伝えている。このようにしてわたしはあなたを警戒し、あなたはわたしを疑うようになり、どちらもお互いを本当には信用しない。これは人々をますます堕落させ、不誠実で、狡猾で腹黒くさせる誤解、憎しみ、悪巧みへの道へわたしたちを導く。さらに悪いことに、このサタンの公理はわたしたちの愛情ある優しい神との遭遇においてわたしたちを警戒させ、疑わせ、不信感を抱かせる。わたしたちは神もまた不誠実で、狡猾で、ごまかしばかりで、わたしたちの利益のために働きを行っていないと思い始める。その結果、神がどれほどわたしたちを愛し、わたしたちに思いやりがあっても、わたしたちは神に信を置きたがらず、神がどれほどわたしたちを求めてきているか気がつきそうにない。その代わり、不誠実な心で、神が為すすべてのことに疑問を呈し、わたしたちの誤解、不安、不忠誠、抵抗を神に押し付ける。このようにしてサタンは人々を堕落させ毒し、わたしたちを神から離させ、裏切らせる目標を達成する。しかし、わたしは洞察力が足りず、サタンの邪悪な企みがわからなかった。わたしはその誤った考えを、尊重され支持される堅実ないのちの哲学と解釈し、ますます狡猾で、疑わしげに、警戒するようになった。神の側に立ち肯定的な視点から物事に近づく代わりに、どんな状況に出会ってもわたしはいつも自らの不誠実な考え方を使った。わたしは神を誤解し、神の意図に疑問を呈した。最後に、わたしの神に対する誤解がますます顕著になるにつれて、わたしは聖霊の働きとの関わりを失い、暗闇に落ちた。今となれば明白だが、「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という言葉は、人々を堕落させてわなに掛けようとサタンが考案した誤った考え以上の何ものでもない。このいわゆる格言によって生きることは人々に神を誤解させ、神から離れさせ、その一方で人々を導いてより狡猾にずるくし、不当に他の人々に対して疑問を抱かせ警戒させるだけだろう。そのように導かれた生は神の嫌悪感を得るだけで、聖霊の働きとの関わりを失い、暗闇に陥るだろう。結局のところ、この格言の支持者たちは自らの不実の犠牲者になるだろう。そのような人々の明るい未来は消滅させられる。この時点で、わたしは最終的に「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という言葉は正統ないのちの哲学ではなく、正しくは人々を騙し苦しめようとするサタンによる卑劣な謀略ということを悟った。この言葉は人々を堕落させ、人間性を失わせ、そして神から逸脱させ裏切らせる猛毒のようなものだった。

その後わたしは神の言葉の次の一節を見た。「神は本質的に信実で、その言葉は常に信頼できる。さらに、神の業には誤りも疑問の余地もない。だから神は、自分に対して完全に正直な者を愛すのである。正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである…もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で奉仕する者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える心があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、正直で、神が喜ぶことだけを願い、自分のことは考えず、自分のためには何も求めようとしないなら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神の言葉からわたしは、神は正直な者を愛し祝福すると理解するに至った。正直であることによってのみ人は正しい方法で、神の意図と調和して生きる。それだから、正直な者だけが神の救いを受ける資格がある。わたしはまた正直な者として行動するにはどうすればよいかを理解するに至った。正直な人々はわかりやすく、隠し立てせずに欺瞞なく話す。正直な人々は鋤を鋤と呼ぶ。正直な者は他人を欺かず、おざなりに行動せず、決して神を騙さず、神に嘘をつかない。正直な人々の心は正直で、不実や背徳がない。話し行動するとき、正直な人々は邪念や隠された動機を心に抱かない。正直な人々は自らの利益のために行動せず、肉を満足させることはなく、それどころか真の人であるために行動する。正直な人の心は高潔で、その魂は誠実で、喜々として心といのちを神に捧げる。見返りに何も求めず、神の願いを満たそうと努める。こうした特質を持つ人々だけが正直な人々、光の中に住む人々と呼ばれ得る。

正直な人であることに関わるさまざまな原則を理解すると、わたしはそれらの原則を実践に移し始めた。他人の対処でわたしは狡猾でなく、勘ぐらず、警戒心を高めないよう意識的に試みた。これに成功するとわたしは非常に自由と解放を感じた。このように生きるのははるかにくつろげるようだった。わたしの職務を果たしつつ堕落を実証すると、わたしは積極的にわたしの仲間である姉妹を求め、交友の中でわたし自らの新しい理解を曝け出し、その姉妹も同じように行った。この過程の間にわたしたちはお互いへの偏見を発展させず、実際さらに一層円満に協調するようになった。会合の間にわたしが神の言葉を引用してわたしの堕落を曝け出しても、兄弟姉妹たちはわたしが当初想像していたほどわたしを軽んぜず、それどころか神の愛の救いの一例としてわたしの説明を理解した。わたしの義務を果たし、自らの評判と地位のためではなく神の願いを叶えるために働きを行うと、わたしの義務を果たす神の意図をわたしが理解できるように、わたしを通じて聖霊が働きを行い、導きを与えてくれるように感じた。その結果、わたしは非常に効果的に自らの義務を果たした。祈りの中で、わたしの内なる思いを神と分かち合おうと、魂から語りかけようとわたしは意識的に試みた。そうする間にわたしは神にさらに近づき、神がとても素敵であると感じた。当然、わたしが神について持っていた古い誤解はことごとくその過程で解消された。正直さを実践するこの過程を通じて、正直であることによってどのように人は光の中に住み、神の祝福を受けるかを体験した。正直な人であることは本当に有意義で価値がある。

正直な人であるという恩恵を体験するに当たり、「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」というサタンの原理は人々を堕落させ傷つけることがさらに明白になった、もしこの原理を守れば、人はいつも暗闇に、堕落に、そして苦しみに生きるだろう。正直な人であることによってのみ、わたしたちは光の中に住み、育まれ、神の賞賛を受けることができる。今後わたしは新たに始めることを誓い、サタンのこの「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という原理を金輪際放棄することを誓おう。今後、正直さが基準であり、それによってわたしは生き、わたしの正直さで神を喜ばせるように努力しよう。

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